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ホログラフィーアートは世界をめぐる 第9回 旅するホログラム part 1

砂遊び

 作品「Riverside」(図1(a))は,1983年夏 岐阜県美術館の企画,「幻想と造形展―ホログラフィーと振動の不思議な世界 石井勢津子 佐藤慶次郎」に初めて発表した。床に25 cm角のガラスのDCGリップマンホログラム20枚と白い小石の寒水砂約200 kgを床面3 m×3 mに広げて置くインスタレーションである。設営の時,大量の重い小石と格闘しながら床に広げる作業をしていたら,美術館のスタッフに,まるで砂場で子供が遊んでいるみたいだとひやかされた。美術用語の“インスタレーション”という表現がまだ認知されていない頃であった。作品を展示空間に合わせて自在に変えてゆく表現手法の作品群を,“仮設の”とか“一時的な”というような意味のインスタレーションと名づけられるのは,もっと後のことである。ホログラムは同じ小石のイメージ,ガラス面の前後にリアルな小石の再生像が浮かび,それらを床に置くと,平らなはずの床は盛り上がったりへこんでいるように見える。実物とリアルな虚像を対比させた視覚体験を提示する作品だ。視覚心理的に垂直面の凹凸は日常見慣れているが,床のような水平面の凹凸は,実は我々はかなり敏感に反応する。この作品を通して,観客は無意識にその体験をすることだろう。約1か月の会期を終えて,撤去に出かけてみると,初日にセットした形とだいぶ様子が変わっていた。実は多くの入場者は初めて見るホログラムの効果を不思議に思い,小石をつまんだり作品の中に足を踏み入れて散らかしてしまうので,美術館では,毎日閉館後,きれいに形を修復したつもりが,どうも少しずつ変形してしまったらしい。

 インスタレーションは,会場が変われば形も変化する。翌年銀座の画廊での個展会場の作品「Riverside」が,図2(a)である。この会場ではホログラム像と実像の対比に加えて映り込みを見せるため,床作品を囲むように天井から透明なプレートを下げ,写り込みの反射像(図2(b))も見せる作品とした。注意深く観察すると,床のホログラムと写り込みのホログラムの色が異なることに気づくであろう。それは,見る角度によってホログラムの色が微妙に変化するからである。図3(a)は2006年の鶴岡アートフォーラムでのRiversideである。図3(b)では,ホログラムを透過した光(影)にも,画像とは異なる色がついていることがわかる。図1 ,2 ,3のように,床の材質や色の違いで作品の印象は変わる。インスタレーションは周囲の環境も作品の一部となるため,空間に合わせた設営は重要な作業だ。

 この作品は東洋の石庭を連想させるからであろうか。世界中から展示のリクエストが来て,さまざまな国を旅した。ホログラムだけ日本から空輸し,小石は現地調達をした。そして,ほとんどの場合,作品と一緒に,私自身も設営のため呼ばれるという具合であった。そこで,たくさんのいろいろなエピソード(苦労話)が生まれることになった。

盗まれた!

 1984年,フランクフルト,マイン川のほとりに建つフィルムミュージアムで開催された「Licht-Blickeホログラフィー展」は,斬新で実験的な展覧会であった。ホログラムのついたA4 ,厚さ2.5 cmの豪華なカタログ(図4)が作られた。さすがドイツは活版印刷発明の国,本を大事にする文化国であると感心した。設営には,従来のミュージアムの設備では対処できない,いろいろな問題をクリアするため,徹夜もいとわずがんばる若い企画者の様子を見て,このメディアの理解度はどこの国でもまだこれからなんだなぁとしみじみ・・・。彼らの苦労がわかるので複雑な気持ちであった。小石は造園業者から取り寄せられ,少しグレーがかってはいたがまずまずで安心した。設営を終え,初日オープニングに出席して,すぐ帰国した。約4か月の会期最終日翌日,フランクフルトから電話がかかってきた。何事かと思いきや,ホログラムが1枚盗まれてしまったという。床に置いただけの作品だから, セキュリティーにはかなり気をつけ,閉館後,毎日ホログラムの数を確かめて注意していたという。会期中ずっと無事で喜んでいたが,最終日を終えて数えたら1枚足りない。盗まれてしまったという。それにしても,最終日に盗むとは確信犯に違いない。私のホログラムが盗難にあった話はいろいろあるが,それは別の機会にするとして,この作品はホログラムが1枚欠けたまま,その後,ドイツの複数の都市を巡回展示されて,1年後に日本に戻ってきた。

 空港に着いたと連絡が入り,通関手続きをする段になって,大変なことに気づいた。無事日本に着いたのは良かったが,通関手続きで高額な関税の請求書が私に回ってきたのだ。算出対象額は展示の保険額相当で,新規の輸入品の関税だから,かなりの高額だ。とても日用品の比ではない。こんな事態を避けるため,実は,私は出荷時にカルネ手続きで送り出していた。カルネは,再輸入を前提にした便利な手続きである。ところが,その書類が荷と一緒に戻らなかった。展示の巡回をしているうちに紛失されてしまったらしい。税関にいくら事情を説明しても,書類がないので埒があかない。先方の落ち度で生じた支払いなので,送り主が対処するようにと,私は断固支払いを拒否していたら,結局,作品はそのまま空港に留まり,数か月が過ぎた。保管のための倉庫料もどんどん加算されていくに違いなかった。そんなある時,ドイツ大使館から連絡が入った。通関手続きのことで困っているらしいので対処するようにと本国から連絡が入ったとのこと。これこれしかじかで困っていると説明した。結局,大使館がすべての費用を支払い,通関手続きを済ませ,問題は解決した。作品は欠けた1枚を除き,無事に私の手元に戻り,そして,大使館の人はゴメンナサイと言ってくれた。大使館の仕事はいろいろあるものだと思った。日本の大使館だったらどうであろうか?

プロフェッショナル

 「知覚の新体験1985」(図5(a))は,ニューヨークのMOH(Museum of Holography)で企画された,8か月にわたる大がかりな個展であった。「Riverside」を含め,素材と組み合わせた4組のインスタレーション,2個の立体作品,5点のホログラムが,ミュージアム(MOHについては以前にも少しふれたが)の2フロアのうち,1階の展示スペースすべてを使って展示された。そして,展覧会カタログの代わりに,ミュージアムの機関誌に展覧会特集号が出版された(図5(b))。会場設営は,さすが全員ホログラフィーのプロだから,安心してまかせられた。また会場づくりのデザイン(私の名前やサインを切り抜いて看板にするなど)やプレゼンの工夫には,いろいろ感心させられた。この時の会場づくりのスタッフは,のちにニューヨークの有名なアメリカ自然史博物館の専属スタッフになったと聞いた。

それまで,多くのホログラフィーアーティストの作品は,1枚の平面として絵や写真のように展示するものがほとんどで,私のようなインスタレーションや立体作品に仕上げる見せ方は,ほかにいなかった。まして,床に広げるなど,もってのほかであった。小石のほか,10 mほどのファブリック,同様の長さの金網,プラスチックチューブなどは現地調達するのだが,マンハッタンは何でも材料がそろう。それ以外の立体作品とすべてのホログラムは日本から送らねばならなかった。日本からの輸送費は,ヨーロッパやアメリカ国内からニューヨークに送る空輸費に比べると,ダントツに高額となる。MOHはミュージアムとはいえ,私立の前衛的実験的な施設であり,そんなに潤沢な運営資金がありそうにも思えなかった。それにも関わらず,この展覧会が実現したのには,1人のキュレーターの存在があった。ルネ・バリローである。彼は5年間の任期期間の最後の企画を私の作品の展覧会と決め,そのため,任期中の展示には予算のバランスを考慮し,できるだけ予算をプールしてこの展覧会を実現させたと後で聞いた。。
 ルネ・バリローは,その後,1997年MITミュージアムのゲストキュレーターとして,ホログラフィーの巡回展「Unholding Light」を企画した。MITミュージアムに,すでにコレクションになっているホログラムのうち,5人の作品を選び,その作家たちの新しい作品を同時に並べて展示するという趣向で,私もその1人に選ばれた。新作品には大型の円形の作品「ひかりの滴」を送った。アメリカ6都市を3年に渡り巡回し,ホログラムは展覧会終了後,ルネの進言でミュージアムに買い上げられた。NYのHolocenterでは,いろいろなホログラフィーの展覧会が企画されるが,あるとき,MITミュージアムの収蔵品となった円形ホログラムが展示された。図6はその時の展覧会の会場風景である。ディレクターの話では,私の作品を展示したいと考え,連絡を取ろうとしていた時,MITのコレクションの作品「ひかりの滴」を見つけ,大喜びですぐに借り出しを頼んだという。アメリカ国内にあれば,輸送は実に簡単だ。日本からの輸送はやはり高いハードルとなる。それを乗り越えて展示されるには,相応の評価がなされなければ実現しない。ルネは私にとって大変ありがたく,うれしい存在であり理解者であった。

(part2 に続く)

(OplusE 2019年5・6月号(第466号)掲載。執筆:石井勢津子氏。
ご所属などは掲載当時の情報です)


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