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カスピ海の奇妙な変遷

カスピ海は過去数百年の間にその姿を大きく変えている。
数百年の間に縮小したのだと言っていい。

近年カスピ海が縮小していると言われているが、縮小が始まったのはつい最近の話なのではないのである。

以下年代順に地図を見ていく。

1593
1610
1635
1655
1686
1698
1706
1719
1720
1730
1739
1741
1783
1786
1793
1801
1844

17世紀後半からその全体が左から縮小していく姿を見て取れるだろう。

また、アラル海を見てほしい。
この存在が現れるのは1730年ほどのことだ。
アラル海は、カスピ海が現在のような形になった後に形成されているのだ

以下は、1859年の文献からです。

一部を抜粋

11.Esquisse Géographique du Bassin de la Mer d'Aral, &c. Lue à la Société de Géographie de Paris. Par M. EUGÈNE LAMANSKY, Secrétaire de la Société Impériale Géographique de Russie. Paris: Martinet.
FROM such a source as M. Lamansky we ought to expect the most correct information respecting the subject here treated of, since, as he himself informs us at p. 13 of his pamphlet, "Most of the narratives of the travellers who have recently visited the khanats adjoining the Russian territories have been published by the Geographical Society of St. Petersburg." The author first points out that little or nothing was known of the Sea of Aral in Western Europe down to the commencement of the eighteenth century, when Peter the Great, then a resident in Paris, made known to the Academy of Sciences some important details concerning the hydrography of Central Asia which had pre viously been acquired by his countrymen. In 1741 Mouravine was sent by the Russian government to survey the shores of the Sea of Aral, of which he subsequently produced a chart; since which time the extension of colonization from Russia, and multiplied journeys of travellers in that direction, have

以下Beepl翻訳

11.Esquisse Géographique du Bassin de la Mer d'Aral, &c. Lue à la Société de Géographie de Paris. 邦訳は、「アラル海沿岸の地理学的調査」です。
Paris: Martinet.ラマンスキーのような情報源からは、ここで扱うテーマに関して最も正しい情報を期待することができる。なぜなら、ラマンスキー自身がパンフレットの13ページで「最近ロシア領に隣接するカナートを訪れた旅行者の物語のほとんどが、サンクト・ペテルブルグの地理学会から出版されている」と伝えているからである。著者はまず、18世紀の初めまで西ヨーロッパではアラル海についてほとんど何も知られていなかったことを指摘する。当時パリに滞在していたピョートル大帝は、自国民が以前から入手していた中央アジアの水路図に関する重要な情報を科学アカデミーに知らせたのであった。1741年、モウラヴィーンはロシア政府からアラル海沿岸の測量のために派遣され、その後、海図を作成した。それ以来、ロシアからの植民地化の進展と、この方面への旅行者の旅が何度となく繰り返されたため、モウラヴィーンは中央アジアの水路図を作成することになった。

上の文献によれば、18世紀にまでは、アラル海の存在は知られていなかったようである。そして、1741年にアラル海の調査団が送られたことが書かれている。

https://www.google.com/books/edition/An_Universal_History_from_the_Earliest_A/3jSOJlH5rRAC?hl=en&gbpv=1&pg=PA54&printsec=frontcover

1762年の文献には、

1762年にアラル湖は長さ150マイル、幅70マイルであると報告されている。これは、同時期の地図と一致しています。

1235 年、シルヴァンシャー・ファリブルズ 3 世は、バクー湾に 1 つに要塞を建設しました。この島は、Sabayil Castleと呼ばれ。謎に包まれています。現在、海岸から約350メートル離れた位置に沈んでいます。

城の考古学的調査は、1939年、1940年、1946年、1962年、1969年に行われました。発掘調査の過程で、9つの常用施設の基礎が発見され、 2 つは囲炉裏がありました。碑文のある約700個の石、黒と赤の土器の破片、完全な容器、Shirvanshah Kershasb (1203/4-24) 銅貨などが海底から引き揚げられました。また、水道管らしき直径の異なる陶器のパイプの破片も発見されました。現在、海底から持ち上げられた石の一部は、シルヴァンシャー宮殿の博物館に展示されています。

19世紀初頭、アゼルバイジャンの歴史家A.バキハノフは次のように書いています。バクーの街の前の海に今でも見ることができる塔、壁、墓石、歴史家がこの街の以前の状態について書いた記述は、400年または、500年前の都市が現在は潜水艦であることを示しています。おそらく、これらの場所は将来的に再び表面化するでしょう。

https://unesco.preslib.az/en/page/MyrZIFLBjC

中世の詩人、アリフ・アルデビリ(1311 年生まれ)は、有名なダスタン (叙事詩)「ファルハドの名」の中で、彼が見た景色を次のように述べています。
バクーの近くの海に要塞があり、この新しい要塞は洪水に見舞われました。ソース

以上の事から13世紀には、カスピ海が存在していなかったことがわかるのである。カスピ海が現れたのはそれ以降のことであり、何らかの出来事。つまり、洪水によって海に沈んだと考えれるのです。

また。以上の地図からアラル海が生まれたのは、1730年頃のことです。

1739年の文献

また、ナイル川の支流や、かつてライデンを通っていたライン川の支流のように、川の水路が干上がってしまったものもある。このように、有名なオクサス川の北の支流は、ジブンやアムというプレセントで、以前はウルゲンツ(フルゼム王国の首都、またはコワレズム)を通ってカスピ海に落ちていたが、約五年前にその街を離れ、北に向かってそのcourfeを取って、ケフェル川に落ちている。この川の流れはカスピ海に流れ込み、1719年、ウズベキスタンのタルタリア人は、その国の北の国境にあるアラル湖に注ぎ込んだ(c)。150
その他にも、以前にはなかった新しい土地、山、川、湖が出現するなど、地表に変化が起きている。

アラル海が出来たのは1719年のことだろう。
現在の科学界や環境学界がアラル海の消失に動揺しているのは皮肉なことだ。300年前にアラル海が存在しなかったということを知らないのです。

カスピ海の水系は、カスピ海の縮小とアラル海発生だけではない、17世紀前後では大きな変化が起きている。

1570

1570年の地図には黒海とカスピ海の間に湖の存在が見て取れるだろう。
しかし、その前後の地図ではその存在は伺う事ができない。

1560
1570

7世紀の以下の地図はすべてが完全につながっている。

これは、年代が分からないがこの年代に大きな洪水のような物が発生したのであろうと考えている。
おそらく、この大洪水は二度起きている。
最初は13世紀か14世紀頃のことだ、この洪水によってカスピ海が発生した。
そして、二度目は17世紀前後だ。

この17世紀の洪水は恐らく世界的でした。
以前の記事でアフリカ大陸とアメリカ大陸が大きく変化したことを示したように、この17世紀で大陸が大きく変容したのだ。

アフリカ大陸の奇妙な変遷https://note.com/opinionmumumu/n/n52a6d164a932

アメリカ大陸の奇妙な変遷
https://note.com/opinionmumumu/n/n77efec74ef89

1770年 デリスル・ド・セールス 原始世界のナビゲーションマップ
1792年 デリスル・ド・セールス 4つの時代のカスピ海の地図 (4つの地図)

以上は、デリスル・ド・セールスが描いたものだ。
4つのこの変化は少なくとも三つは過去の地図からも明らかである。

最初の地図は興味深く、これを裏付けるようにカスピ海には様々な生物が存在していることが研究でわかっている。https://www.researchgate.net/publication/313369514_Sustainable_society_for_the_saving_unique_biodiversity_and_very_rich_biological_resources_of_the_Caspian_Sea#pf39

実際には、カスピ海の境界内に、
淡水、汽水、超塩水の 3 つの生態系が並行して共存し、この湖の生物学的多様化を促進して いることに特に注意する必要があります。

現在のカスピ海の現代の動植物は、次の 4 つの主要な構成要素で構成されています。2 - 北極起源のもの。3 - 大西洋および地中海起源のもの。4 - 淡水起源
(Derzhavin、1912; Knipovich、1938; Berg、1928; Zenkevich、1963)。

カスピ海の生物多様性は、黒海の生物多様性の 2.5 倍 (表 4)、バレンツ海の生物多様性の 5 倍
です (Zenkevich、1963)。この主な理由は、おそらくその変動する塩分
です。現在の淡水動植物にとって水の塩分濃度は高すぎ、現在の海洋生物種にとって
は低い。したがって、現代のカスピ海は、海洋と大陸の両方の水域に由来する汽水種にとって真の楽園です
(Birstein, 1939; Mordukhai-Boltovskoy, 1979)。しかし、私たちの
意見では、純粋な淡水湖との比較は、カスピ海の不安定な塩分濃度が、
生物多様性の損失よりも多様化に有利であることを示しています。

外来種

カスピ海への侵入者の最も古いグループの 1 つは、北極の侵入者です。
おそらく、氷河期にここに侵入したのでしょう。次の生物は、北極の侵略者の例として役立ちます。

Sabellidae 科の Polychaeta の 1 種 - Manayunkia caspia は、おそらく北極地域からカスピ海に侵入しました。
カスピ海には他にも多くの北極侵略者がいます: Limnocalanus
grimaldi、Mesidothea entomon glacialis、Pseudalibrotus caspius、P. platyceras、Pontoporeia affinis
microphthalma、Gammaracanthus loricatus caspius、Mysis caspia、M. microphthalma、M. macrolepis、M.
amblyops、Stenodus leucichthys 、Salmo trutta、Phoca caspia。これらすべての生物がいつ、どのように侵入したか
カスピ海は知られていません。

上記研究は、カスピ海はかつて海と繋がっていたことの証明ではないだろうか。

海が繋がっていた理由は大洪水であり、その後年月によって、水が引いていったのであるのです。

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