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歴史は我々が思うより遥かに短く、実際の現在の年代は1000年に満たない。

歴史は著しく大きな間違いが存在しています。
歴史の間違いは、戦争の真実などが挙げられるが、一部の人の間で知られているものとしてタルタリアなどが挙げられる。
更に大きな間違いとして、年代がそもそも間違っているのだ。

現在の実際の年代は定かではないが、本当の現在の年代は1000年に満たないだろう。

大きなヒントを与えてくれたのはタルタリアの存在であるが、過去の地図と文献を参照するとき、大きな誤りに気付く。

以下過去の記事

だが、このタルタリアの王がノアであったことに触れたが。このノアが王であるという記述はその他の文献でも散見することが可能で、少なくとも、17世紀にはノアはタルタリアの王として知られていたことがわかる。

ヨーロッパでは邪悪の存在としてしられていたという記述を見かけることができる。

以下 1670年のモンタヌス日本誌という本の日本語訳の本が1920年に出版されているのを参照すれば、ここにもノアがアジアに国を作ったことが書かれているのを読む事ができる。

最後まで読んではいないが日本がタルタリアの一部であったことのヒントをつかむことが出来るだろうと考えている。

このことについて、後の記事で書こうと思うが本題は、現在の年表、年代がそもそも、間違っているという話だ。

結論からすれば、現在の聖書が間違っており、原典が著しく改変され、年代の引き延ばしが行われいる。

その年代の引き延ばしは1000年に上る。

この年代の引き延ばしが行われ始めたたのは、500年頃からだろう。この年代の引き延ばしによって、西ローマ帝国と東ローマ帝国の崩壊の年代に1000年のずれが生じたのである。

この年代の間違いに気が付き本にまとめたのがアナトリー・フォメンコ氏である。

この年代の疑わしさについて、カクヨムという別サイトで書いたのでリンクしておく。

このことについて、ここでいくつかを省き、短くまとめていく。

アメリカ
https://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~301179~90072271:Nova-Totius-Terrarum-Orbis-geograph?sort=Pub_List_No_InitialSort%2CPub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No&qvq=q:Nova%20totius%20terrarum;sort:Pub_List_No_InitialSort%2CPub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No;lc:RUMSEY~8~1&mi=3&trs=27

上は、アメリカの地図であるがこの中の年代に J592 I579 I6I6 I587 J615 などと書かれているのが分かるだろうか?

a°は、ラテン語のanno。年を表す。

上の地図の窓枠にコロンブスがアメリカを「発見」したのはJ592年と書かれている。このJ592の「J」が1を表すのであれば、1592年となるが、なら、そこから先のa°Ⅰ599とは一体何なのかである。

コロンブスの「アメリカ大陸の発見」は公式には、1492年である。しかし、上の地図はJ592年となっている。
以下の地図は、Ⅰ492年となっている。

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nova_totius_Terrarum_Orbis_geographica_ac_hydrographica_tabula_(Hendrik_Hondius).jpg


画像3
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/Nova_totius_terrarum_orbis_geographica_ac_hydrographica_tabula_LOC_2002622159.jpg

つまり、「J」と「I」は別物であるということである。

また、何でもいいから古い文献を見るとき、このような表記を見ることが出来る。

こういった謎の記述は文書や地図だけではない。

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上は、1717年の東インドコインである。この時には、Iではなく1が使われているのが分かるだろう。

ドイツ

同じ1717年とするドイツコインは、1がⅠになっている。

そして、スイスの1621年とされるコインはi62Iと書かれています。iが数字を示す場合、最後のIが何故iではないのかという疑問。さらに多くのコインで謎の記述を散見することができます。

結論から言えば、このⅠとJが示すものは年号であり、Iは「イエスからの」を表す年号である。Jは「星の神殿の世界創造」である

星の神殿とは、恐らく、天蓋のことだ。

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このような状況を作り出したのは、ヨセフ・ジャスタス・スカリゲル(1540-1609)とフランス人イエズス会のディオニシウス・ペタヴィウス(1583-1652)であると言われている。

スカリゲルの『De Emendatione temporum』(1583年)は、古代の年代に関する考え方に革命をもたらしました。

スカリゲルは、古代史がギリシア・ローマにとどまらず、それまで軽視されてきたペルシャ、バビロニア、エジプト、そして別物として扱われてきたユダヤの歴史も含んでいることを明らかにしたとされています。
スカリゲルは、失われた『エウセビオスの年代記』を復元することに成功した。
この文献は1606年に出版された『Thesaurus temporum』で、ギリシャ語やラテン語で現存するあらゆる年代記の遺物を収集し、復元、整理したものです。
1627年には『De doctrina temporum』その後『Tabulae chronologicae』(1628、1629、1633、1657)を出版しています。

1700年、ロシアの7208年にピョートル大帝と名乗る人物が暦を変更し、その瞬間から1700年となったことはよく知られている。ロシアでは、それまで、ビザンツ暦を採用していた。

1700年のロシアでは「星の神殿での世界の創造」から7208年を迎えていたことになる。当然、「新世界」と「創造された世界」がある。
この新世界がアメリカ大陸なのではないだろうか?

つまり、1700=1492年であり、Ⅰ700年=I492年

1700 - 1492 = 208
700 - 492 = 208
1700年のロシアの暦の変更が、7208年。
7208年はJ208年。

そして、このあたりの年代が著しく混同されている可能性が高い。

そして、年代の引き延ばしによって西ローマ帝国と東ローマ帝国の崩壊に1000年の差が生まれてしまったわけではないだろうか。

「i」は、イエスからを示すもので、「j」は、星の神殿の世界の創造。公式の年表は、i475年から、搔き回され、i700年位までの歴史が1700年まで引き伸ばされたという結論になります。

これを行う中核となっていったのが、1502年(i502年)のフリーメイソンによって設立されたイエズス会です。

1700年頃に世界に植民地化を行っていたのはイエズス会であり、1700年のロシア歴の改定や、1700年代から「i」が「1」に変わっていった時期に重なります。

この過程によって、多くの歴史的文献と歴史が捏造されていったのです。

聖書は一つの歴史的資料であります。そして、その聖書の写本が存在しています。大写本または四大写本は、聖書の全文を含む(または元々含んでいた)現存する唯一の写本であります

バチカン写本:325-350年頃
この写本は、少なくとも15世紀以降、バチカン図書館に保存されていたため、その名が付けられました。

シナイ写本:330-360年頃
1844年発見

アレキサンドリア写本:400年頃-440年頃。
アレキサンドリア写本の名前の由来は、この写本が何年間も所蔵されていたアレキサンドリアにあります。その後、17世紀にイギリスのチャールズ1世に贈られた。

エフライム写本-:450年頃
これは、ある時期に発見された。19世紀のある時期に「発見」されたものだと思われる。

このように、元となる写本を4世紀のものとはいっているが、この「年代」を考慮すると、聖書本文の最古の写本は、1400年代前半のものであることが分かります。

「1400年代以前に書かれた古代の原典は存在しない」ということです。

西暦はキリストからの年数で、その数字の前にADまたは、BCが付きます。
重要なのは、そこに「以前」と「以後」を示す区分があるということです。
Anno Domini、別名ADは、中世ラテン語で「主の年」という意味です。
しばしば「主」の代わりに「我々の主」を使って表現され、「anno Domini nostri Jesu Christi」つまり「我々の主イエス・キリストの年に」と訳されます。
Anno Domini(主の年)の主とは、つまり、イエス・キリストのことです。

Anno Domini 年代学の創始者は、ディオニシウス・エクシグウス (c. 470 – c. 544) です。
彼は、「我々の主イエス・キリストの受肉から」525年であるとしました。

500 / j500 /i500には類似性があります。

どような偶然か、西ローマ帝国と東ローマ帝国の崩壊はもちろん。宗教改革、カルヴァン、宗教戦争、イエズス会の創設、すべては、i500 / j500の周りに始まっています。
そして、さらに。アメリカはその直前に「発見」されました。
500から1500の謎の1000は、ローマ帝国によく表れています。
西ローマが475年に崩壊し、しかし、どういうわけか、東ローマ帝国は生き残り、千年以上続き、西暦1453年に崩壊した。

西ローマと東ローマの年代の差が実際には22年であったと言う方が自然で、実際にはそうであると想像するのは容易い。

500 / j500 /i500、そして、500年前後から1500年前後が恐ろしく混同されている。この引き延ばしが1700年まで行われている。

7208年とされているJ208年であり、その暦の変更によって、1700年とされた、そして、この1700年は、実際には、492年頃である可能性が非常に高い。

Anno Domini(主の年)の主とは、つまり、イエス・キリストのことでした。

聖書は、共通のタイムラインで西暦約 1400 年以降に書かれたと思います。
このイエスとは、人ではなく、イエスという何か大きな出来事だと考えられます。
この「イエス イベント」は少なくとも 2 回発生しました。最初は水を伴い、2番目のものは火を伴いました。

これらの「イエス・イベント」のタイミングは、回転する夜空の天体に隠されています。

ピョートル大帝は本名ではないか、本名であるとしても別人のものでしょう。

すべての印刷された歴史書には嘘が含まれています。しかしながら、嘘の行間を読むことで、ヒントを得ることができます。それは、手書きのテキスト素材でも価値があります。


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