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風が吹くと桶屋は儲かるのか―EM菌を例に,何で?どういうこと?を問う力を考える―

 今回は,EM菌を取り上げます。まずは事例紹介など。

立会川浄化作戦!闘えEM菌だんご
https://shinagawa-eco.jp/wp/coto/?p=24
環境教育―「 有用微生物群)の力」の授業
https://land.toss-online.com/lesson/aakt5wapbwq6sxma
失敗しない 生ゴミ処理  熟成・発酵編
https://land.toss-online.com/lesson/aakt5t4puv5ax2ib
EM(通称:EM菌*)はEffective(有用な)Microorganisms(微生物たち)の英文の頭文字に由来しています。その名の通り、特殊なひとつの菌ではなく、乳酸菌や酵母、光合成細菌など、どこにでもいる微生物で、人間にとっていい働きをしてくれる微生物の集まりです。(EM生活』HPより)
https://www.em-seikatsu.co.jp/em/category/detail.php?id=24

 いやぁ実に良いもののように紹介されていますね。冒頭にも挙げたとおり,学校教育・環境教育上の実践としても利用されているようです。それでは,ここでEM菌開発者である比嘉氏の連載を引用してみましょう。

何かいいことや、危険から身が守られたり、最悪な状況が、逆に力となって最善の結果が現れた場合、それらはすべてEMのおかげであると考えることがスタートです。すなわちEMは神様だと考えることです。
1.EM製品を身に着けていたので交通事故に遭っても大事に至らなかった。
2.EM生活をしていると大きな地震が来てもコップ一つも倒れなかった。
3.EM生活をしていると電磁波障害が減り、電気料金も安くなり、電機製品の機能が高まり寿命も長くなった。
(『新・夢に生きる』より)
https://www.ecopure.info/rensai/teruohiga/yumeniikiru74.html

 急激に怪しくなってきましたね。良いことはすべてEM菌のおかげ。EMは神様。雨が降るまで雨乞いをしたら雨が降ったので,雨乞いは効果があるんだ―みたいなお話です。念の為確認しますけど,微生物なんですよね?
 EM菌は,開発者曰くその効能が多岐にわたるとされ,そのすべてに反駁することは容易なことではありません。とりあえず,手のつけやすそうなところから,お話してみようと思います。

 いつもどおり前置きが長くなって恐縮です。本稿の大きなテーマは,① 「何で?」「どのような仕組みで?」を問う力,② 「それってどういうこと?」を問う力―の2点です。


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① 「EM製品を身に着けていたので交通事故に遭っても大事に至らなかった」について ―「何で?」「どのような仕組みで?」を問う力―

 最も根本的にして,実は難しいのがこの類です。なにせ,教科書には「EM菌は交通事故の被害を抑えない」とは書いていないのです。だから考えないといけません。
 前回の投稿では,学校の勉強をして身につくものとして,分からないことを考えよう・調べようとする姿勢を取り上げました。今回の投稿では,まずは「EM製品を身に着けていたので交通事故に遭っても大事に至らなかった」という言説に対し,「何で微生物が交通事故の被害を抑えるのか?」といった疑問をもつことについて考えてみようと思います。

 この「何で?」という疑問をもつ・もたないの違いは,決定的なものです。「壺を買えば幸せになれる」という言葉に,「何で?」と返さない人は少なくないでしょう?然らば,身の回りの様々なモノ・コトにも「何で?」と考えられるようになるにはどうすればいいでしょうか。私は,これも理科を勉強することで身につく力ではないかと考えます。
 理科を勉強していると,互いに関わりのある2つの現象XとYを学習する時,「現象Xが起こると,Rという理由・仕組みがあって,次に現象Yが起こる」という,因果関係に基づく理解をよく求められます。ここでは,皆さんもきっとご存知の「光合成」を例にあげてみましょう。光合成について,義務教育理科,高校理科,大学教養課程…と,どのようにその理解が深まっていくかを紹介してみたいと思います(途中から専門用語が並びますが,理解が深まっていく雰囲気だけでも感じ取っていただければ幸いです)。
 さて,植物の葉に光が当たるという現象(X)と,葉で炭水化物(でんぷん)が作られるという現象(Y)の間には,どういう理由・仕組み(R)があるでしょうか。

 植物の葉に光が当たる(X1)と,葉で炭水化物が作られます(Y1)。その理由は義務教育理科で,光合成が行われるから(R1)と学習します。ここで,「光合成が行われる」という理由が,やはり現象であることに気付きます。
 つまり,葉に光が当たると,光合成が行われるのです。では,葉に光が当たる(X1)と,どのようにして光合成が行われる(Y2)のか。その仕組み(R2)は高校生物で,葉緑体にある光化学系Ⅱの反応中心が光エネルギーによって活性化し,水分子が分解され〜と学習します(だんだん耳慣れない言葉になってきました)。
 つまり,葉に光が当たると,水分子が分解されるのです。では,葉に光が当たる(X1)と,どのようにして水分子が分解される(Y3)のか。その仕組み(R3)は大学の植物生理学の講座で,光エネルギーによって還元型P680が励起し,電子を放出して酸化型となり,失われた電子を供給するように水分子がマンガンクラスタの触媒作用によって分解され,〜と学習します(ここらで読者の方が離れていきそうで怖いです!)。
 つまり,葉に光が当たると,マンガンクラスタの触媒作用で水分子が分解されるのです。では,葉に光が当たる(X1)と,どのようにしてマンガンクラスタが水分子を分解する(Y4)のか。その仕組み(R4)は,マンガンクラスタの構造解析というテーマで,研究者らがしのぎを削っています。R4は,未だ途中までしか分かってないんですよ(一転してワクワクしませんか。これ,今ホットなテーマなんですよ。光エネルギーで水を分解する触媒の仕組みがより詳細にわかれば,水に光を当てて高効率で水素を得られるという技術が確立するかもしれません。脱炭素社会に向けた取り組みの一つとして,世界中の…)。

 このように,小学校,中学校,高等学校,そして大学で学ぶ内容を通してみると,「何で?」「どんな仕組みで?」の解像度がどんどん高まっている(=どんどん細かいところまで見えるようになっている)ことがお分かりいただけるでしょうか。なんだか,理科で学ぶことは,子どもの「何で?何で?攻撃」と似たような匂いを感じます。

 「何で?」という問いに際限はありません。残念ながら私達は,その問いを深めていくことを,時間の有限性を言い訳にしたり,生活を送る上での必要性に応じたりして,どこかで止めてしまっています。決して良い/悪いの価値観の話ではなく,光合成の例を1つとってみても,R1くらいの浅いところで満足する人もいれば,R3くらいの深さまで知ろうとする人もいます。「何で?」を掘り進み,行けるところまで行くと,そこでは研究者が現在進行形で解明に勤しんでおり,そして研究者は更にその先の「何で?」にぶちあたっているというわけです。
 人によって異なる,この「何で?」の深さの違い(R2まで考えるか,R3まで考えるか)は量的な違いであり,日常生活を送る上で大した違いを生まないでしょう。しかし,一番初めの「何で?」すなわちR1を問えるか問えないかは質的な違いです。そこを問えないと,「壺を買えば幸せになれる」「バナナを食べると新型コロナウィルスに感染する」といった言葉に引っかかるというわけです。まずは,「何で?」と問う―そこから始めましょう。

 …そういえば,書店に行くと,理科に限らず,学校で学ぶ様々な教科・科目の「学び直し本」があることに気付きます(…学校理科の生物関連はあまりないんですけど,「おもしろ生き物図鑑」的なものはたくさんありますね)。「生涯学習」という言葉も,似たような文脈で語られることがありますね。理科に関して言えば,学ぶ上でも,学び直す上でも,大切なことは次の3つあると考えます。

 A.ある分野について,自分がいま「何で?」をどこまで掘り進められているのかを自覚すること。
 B.学び直すことによってその深化を感じることができるようになること。
 C. 何で?」を問えていなかったモノ・コトや自分自身に気付き,一番初めの「何で?」を問うことができるようになること。
(AとBは量的な学び直し,Cは質的な学び直しとでも言いましょうか)

 要するに,「ここまでは知っていたな,でもここから先は知らなかったな。」「こんな仕組みになっていたんだな,ぜんぜん知らなかったな,何となく想像していたことと違ったな」―こういった経験の蓄積は思考の訓練となり,分からないことにぶつかったときの姿勢がだんだんと培われていくのではないかなと,なんとなく思います。
 理科では「何で?」を問うて因果関係を整理したり,自分が立てた仮説の妥当性を検証したりといった力の基礎を学んでいる―という言い方もできましょうか。皆さんが学校で学んだ「理科」は,その力の礎となっているでしょうか。

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② 環境学習への利用について―「それってどういうこと?」を問う力―

立会川浄化作戦!闘えEM菌だんご
https://shinagawa-eco.jp/wp/coto/?p=24

 冒頭でも紹介したこちらの事例を取り上げます。

今回の目玉は、『EM菌だんご』と水草の『ホテイアオイ』を使った立会川の浄化作戦です。
EM菌とは、乳酸菌や酵母菌、光合成細菌など、自然界に生息する有用な微生物軍のことです。抗酸化・抗菌・抗ウイルス作用等があるとされ、生ゴミを肥料に変えたり、排水・下水などをきれいにしたり、悪臭を消したりするのに用いられます。
(同HPより。「EM菌だんご」とは,「EM菌をふんだんに土に混ぜ込んで作った」ものとある)

 結論から言いましょう。
 「EM菌だんご」は,河川にとっての汚濁と,本来そこにいなかった外来微生物の塊です。そして「ホテイアオイ」はその繁殖力から要注意外来生物に指定される(当時。現行法では生態系被害防止種に指定される)生物です。

 まずは「汚濁」という言葉について考えます。「EM菌だんご」は,「EM菌をふんだんに土に混ぜ込んで作ったもの」です。つまり,EM菌だんごを河川に投入するということは,土と,様々な菌類・細菌類とを河川に投入するということです。ここでさらに,「河川に土を投入するって,どういうこと?」と問いを立ててみましょう。高校の生物基礎程度の知識を使いながら,例えば,次のような具合で話を続けてみます。

 土を河川に投入するとはどういうことでしょうか。まずは,そもそも「土」とは何かを考えてみましょう。土とは,岩石の削れてできた砂粒などをつくる無機物(二酸化ケイ素など)や,生物の遺体に由来する有機物(炭水化物,タンパク質,脂質,核酸など)の混ざったものを言います。つまり,土を河川に投入するということは,有機物と無機物を河川に投入するということです。
 それでは,有機物や無機物を河川に投入するとはどういうことでしょうか単純に,河川が汚れるということが考えられます(EM菌には乳酸菌や酵母が居るという点では,ヨーグルトや,火入れしていない醸造酒を直接川に流すようなものです)。また,生物の遺体に由来する有機物は,微生物にとっての栄養源となりますから,それは河川にいる微生物にエサを与えることということになります。
 それでは,河川にいる微生物にエサを与えるとはどういうことでしょうか。微生物は,水中の酸素を利用してエサを分解し,己の栄養源としますから,それは水中の酸素が不足するということになります。
 それでは,水中の酸素が不足するということはどういうことでしょうか。至極単純な話として,魚類,昆虫類,水草類が呼吸するために使う酸素が不足し,そういった生き物が数を減らしてしまうかもしれないということです。
 また,「EM菌だんご」に含まれる微生物や,ホテイアオイの利用も考えてみましょう。微生物やホテイアオイは,生き物です。つまり,EM菌だんごやホテイアオイを河川に放すということは,他所からもってきた生き物をそこに放すということです。
 他所からもってきた生き物を,高校生物では「外来生物」と学習します。つまり,他所から持ってきた生き物を放すということは,外来生物をそこに作り出すということです。EM菌だんごを放り込むにせよ,ホテイアオイを放すにせよ,どうもあまりいい結果は生みそうにありません。

 こうやって,「どういうこと?」を繰り返しながら,どんどん「言い換え」を行っていきます。理科で学んだ知識は,この「言い換え」をするのに使われます。

 昨今,「知識偏重からの脱却」だとか,「思考力」だとか,「知識はググればいい」とか,そういったことを耳にすることがあります。思考力が大事なのは今も昔も変わっていませんから,このような主張は「思考力を育てるもの」ではなく,「知識を捨てるもの」でしょう。知識に裏打ちされない思考は厄介です。自分のことを棚に上げて言いますが,「うすっぺらい人」ってそういうことでしょう?文科省だって,学校教育で身につけるものとして第一に「知識・技能」を掲げていますし,そこを蔑ろにするのはよくないと思いますよ。

 私たちの思考のベクトル(深さと方向性)は,持っている知識のベクトルに依存します。
 例えば,「葉に光が当たれば,炭水化物が合成される」というテキストに対しては,生物学的な知識をどれだけ有しているかによって,葉の中の葉緑体をイメージするか,葉緑体の中の光化学系Ⅱをイメージするか,光化学系 の中のマンガンクラスターをイメージするかが変わります。どれくらい深い知識を有しているかによって,同じ「光合成」という現象に対しても,考えるテーマが深くなっていきます。
 また,「EM菌だんごを河川に投入するとはどういうことか」というテキストに対しては,生物学的な知識があれば,さっき紹介した通り,「汚濁や外来微生物を河川に流すということだ」といった思考になります。他方,例えば経済学的な知識があれば,「EM菌の広告と普及によって業者が利益を上げる構造があるということだ」といったことになる…んでしょうか(足りない頭で想像してみたんですが,違ってたら教えて下さい。こういうときに,勉強不足を感じますねぇ…)。いずれにせよ,どのような方向性の知識を有しているかによって,思考の方向性は変わってきます。
 つまり,何をどのくらい知っているかによって,何をどのくらい考えるかが,ある程度決まってくるということです。「知識はググればいい」とか,私は口が裂けても言えませんねぇ。

 理科の教科書を読んでいると,「どういうこと?」と,分からなくなることがたくさんあります。問いが立てられているわけですから,それでいいんです。それは,教科書の文章を読んで,何が起きているのかイメージすることができず,イメージができないからそれを自分の言葉で言い換えることができないことに,ちゃんと自分で気付いているということです。教科書を読んでいてそのような問いが立ったのであれば,その答えを,資料集や参考書に求めたり,先生に質問したりして,1つ1つ腑に落として行く―学習者の皆さんには,そういうクセをつけていただきたいと思います。
 一番問題なのは,問いが立たないことです。①でも,一番初めの「何で?」を問えるか問えないかは大きな違いだという話をしました。②でも同じです。教科書を読んで,「どういうこと?」が問えないでいると,いわゆる「分かったつもり」が出来上がります。「この壺を買えば幸せになれますよ」に対して,「どういうこと?」と問うのです。「壺を買うということは,貴方の財布が潤うということであって,私の財布が潤うということではない…」と考えるのです。

***

 さんざん理科の話をしておきながら,最後に国語の話をします。
 私は,高校生の頃に学校の国語の先生に言われた,「評論はツッコミを入れながら読め」という言葉が,どうも忘れずにおれません。ツッコミとは,「何で?」「ほんとに?」「どういうこと?」「根拠は?」「具体例は?」といった具合のものです。評論を1文1文読むたびに,1つ1つ軽めに,ジャブを打つようにツッコミを入れていく。それこそ,「何で?」と感じなくても,とりあえず「何で?」と聞いておくくらいに。一度「何で?」と聞いておけば,その理由を説明する箇所まで読み進めた時に,「ああそういうことなのね」と腑に落ちる。そして更に「具体例は?」などと別のツッコミを入れる。こうした読み方が功を奏したのかどうかは分かりませんが,大学入学以降,専門書を読むための姿勢は,国語の授業を通してしっかりと身につけさせられたと感じています。理系で大学受験したクセに,入試本番の成績で国語の得点率が一番高かったのは,ここだけのお話。

 「理科を勉強すると,疑似科学に引っかかったりしなくなる」
 これはよく言われます。私はもう少しこれを補足したいと考えています。
 「理科を勉強することで培われる,理科の知識とツッコミの姿勢が,疑似科学に引っかかったりすることを防いでくれる」

さぁみんな一緒に。
Repeat after me, 何でやねん.

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