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「クリエイティブ」のこと

 今回は、「クリエイティブ」に関する文章を書きました。夢大の経験をもとにしています。拙文ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。

 4月より北海道大学の学生となった。読者の皆様には、これからもよろしくお願いいたします。
 さて、私は高校生の頃、利根沼田夢大学という活動をしていた。よく地元でも、高校でも「なにそれ?」と聞かれた。そして僕はその度に説明に苦労したものだ(聞いてみたら、一緒にやってきた一つ下のスタッフも「説明できないっすよね」と言っていた。同感)。
 僕としては夢大(ある一期生が口にして以来、略してよくこう言う)という「新しい」ものをつくっている意識だったことが、夢大を説明できなかった理由なのだと思っている。つまり、夢大は夢大なのだ。結果「新しいもの」をみんなに理解してもらうために僕は一年・二年と時間をかけて「夢大とは何か?」を説明してきた。

 夢大とは何か、最小文字数で伝えなさい、と言われたら今の自分は「地域共育×地域づくり をする中高生主体の市民大学」と答える。夢大は心躍る地域をつくることをミッションに掲げ、そのために、自分と地域の未来に夢をもち生き活きとした若者を育てる事業を行っている。まだわかりにくいでしょうか(笑)興味がある方は以下のURLから利根沼田夢大学の活動を覗いてください(前年度は特別事業…具体的にはまち映画制作 をしたので、前々年度を見てもらえるとより分かりやすいと思います)
https://www.facebook.com/tone.numata.yumedaigaku/

 「新しいもの」をつくることを、一般には「クリエイティブ」な活動と言うんだろう。クリエイティブという言葉は、僕もよく使っているし、よく耳にする言葉。なんとなく便利な言葉だ。オックスフォード英英辞典には、こんな風にcreativeを説明している。

① [only before noun] involving the use of skill and the imagination to produce something new or a work of art
② having the skill and ability to produce something new, especially a work of art; showing this ability

 新しさと切っても切れない言葉であるクリエイティブ。夢大の活動が何か新しい風だ、と皆さんに感じてもらえるなら、僕の活動もまた「クリエイティブ」な活動だと思っている。

 しかし、である。「クリエイティブ≒都心風」という感覚が一般にはある気がする。もっと突っ込むと「新しいものは都心からやってくる」という感覚。あとは、都心ではなくても技術的な先端をイメージする感覚。今僕が住んでいる札幌に「札幌創世スクエア」という公共複合施設があるのだが、そこの中心的な施設が大型の良いホール(札幌文化芸術劇場Hitaru)なのはわかりやすい例だ。まあ、理解はできるけどそれはクリエイティブの限られた側面しか映していないのではないか。僕らの「夢大」はそういう「クリエイティブ」じゃない。

 じゃあ、クリエイティブとは「なに風」なんだよ。一応、僕なりの答えはある。
 クリエイティブとは、僕は「かけ算」だと思っている。なにか、世界に存在しているあるものと別のあるものを材料に、両者をかけあわせて新鮮なものを生む。夢大だったら「地域共育×地域づくり」なのである(そもそも、地域共育って概念自体かけ算の産物だろう)。根源的な「創造」、生命の営みだって、父母の遺伝子という、世界に存在しているものどうしのかけ算だ。

 「かけ算」の驚くべきことは、計算結果が新しいものであっても、その材料(かける数、かけられる数)は既存のものということだ。「新しいものを生み出さなければならない」と考えると、材料から設計の何から何まで新しくなきゃいけないのではないかと気負いがちだと思う。事実、だからこそ「クリエイティブ」って言葉がやたらと使われるんだろう。でも、クリエイティブをかけ算ととらえることができれば、その辺の気負いは解決する。

 ただし、気負いは解決するけれど、また別の難しさはあることにも留意しなければならない。それは、良い材料が見えにくいということが多々ある、ということだ。だからこそ、オックスフォード英英辞典で言うところのskillとかabilityとかが必要になるのではないか。

 少し寄り道しよう。最近僕のプチ・マイブームとなっている穂村弘の文章。彼の『短歌の友人』(2007、河出書房新社)に、こんな穴埋め問題が登場する。

□□□□□□□おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
これはある短歌作品の一部を伏せ字にしたものである。□□□□□□□の部分に何が入るだろう。「みずいろのベンチ」の上に置かれて、「しずかなる夏」の感覚を表現するのに最適なものは何だろう。

著者は「図書館の本」「コカコーラの缶」「君よりの手紙」と回答例を示した後、答えを明かす。

うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏  村木道彦

 著者は「うめぼしのたね」について、「圧倒的なリアリティ」があると書きながらも「我々の意識の死角に入っているような言葉」と評価する。著者はこうまで言っている。

…次のようなことが云えないだろうか。人間の生存を支える合目的的な意識こそが、ベンチ上に確かにあるはずの「うめぼしのたね」を我々の目に映らなくしている、と。すべての人間にインプットされている「生き延びる」という目的とそれに向かう意識こそが、我々を詩のリアリティから遠ざけているのではないか。

このように、どのような論理であれ、恐ろしく新鮮だと感じさせるかけ算結果を生む材料(ここでは「うめぼしのたね」)を探すことは難しい。けれども、こうした「ベンチにおかれているもの」を丁寧に見つけていって、そこから新しさを提示する、という行為こそ、文化cultureなのではないか。すべてが新しいなんていうdevelopmentは果たして存在するのだろうか。

僕が恐怖を感じている、文部科学省ホームページよりの文書。

近年,知識・情報・技術をめぐる変化の速さが加速度的となり,情報化やグローバル化といった社会的変化が,人間の予測を超えて進展するようになってきている。
とりわけ,第4次産業革命ともいわれる,人工知能(AI: Artificial Intelligence),ビッグデータ,IoT(Internet of Things),ロボティクス等の技術の急速な進展に伴い,これらの先端技術が高度化してあらゆる産業や社会生活に取り入れられ,社会の在り方そのものが現在とは「非連続的」と言えるほど劇的に変わる「Society5.0」時代の到来が予測されている。
(文部科学省(2020年)教育の情報化に関する手引-追補版- より  2021年4月9日閲覧)

 いや、わかりますよ。情報化が進む、劇的な変化のある「Society5.0」時代になるのはわかりますけど。非連続的で本当にいいと、官僚の皆さんは本気で思ってるんですか。かぎ括弧までつけちゃって。

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 今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございます。こうしてnoteで文章を書いているのは、自分の書く能力・考える力の向上を図るためですから、文章上のご指摘や内容についてのご意見は歓迎しております。若気の至りという部分もありますが、何かあります方はなんらかの反響いただければ幸いです。

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