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やっぱり100点はうれしい


先日、子どもが通っている公文教室のお迎えに行ったときのこと。

「今日は、算数が全部100点で国語は少しまちがえちゃった」
「久しぶりに算数が全部100点だったからうれしかった!」

と自分から話しかけてきました。
そうだよね、やっぱり100点はうれしいよね。


いつもは、学校のことも公文のことも、私から尋ねない限りは何も言ってきません。
たとえ訊いても、ふてくされて「忘れた」というのみです。
そして、私から聞き出した結果が、良い結果でないことを受けて励ましたとしても「別に100点じゃなくてもいいもん!」と強がるのが常です。


そんな子が、こちらから尋ねる前に報告してきたのです。
しかも、「うれしい」という感想付きで。
もう、公文に通い始めて数年経ちますが、こんなことは初めてです。


正直、気持ちよく100点を連発できるような難易度に調整したほうがいいのかな、と思ったこともあります。
もっと幼い頃は、本人が100点じゃないのが許せなくて取り組むことを嫌がるので、宿題をするときにはずっと私がつきっきりで一問一問手取り足取りでやって、100点になるようにしていた時期もあります。

100点じゃなくてもいいことは口が酸っぱくなるほど伝えてきました。

それでも、本人は長い間、100点でないことを許せなかったり、逆に「どうせ100点なんてとれないんだ」といじけたり、白か黒かしかないような態度をとってきました。


今なら、この時期は必要な時期だったんだと分かります。
何が何でも100点が取りたい時期、100点が取れなくても傷つかないように強がって自分を守ろうとしていた時期、そこがあったからこそやっと自力での100点を喜べて、100点じゃない自分も受け入れられる、そんな時期が来たんだなと思います。


算数での100点を素直に喜んだとき、国語での失点は素直に穏やかに受け入れていたように思います。
普段だったら、不貞腐れて投げやりになるのですが、軽視するわけでもなくネガティブな結果もきちんと受け止めていたのです。

思わず誰かに話したくなる、誰かと共有したくなるくらいのうれしいテンションの高まりを、この子もきちんと持っていたんですね。
いや、一つ一つ段階を踏んで、そのテンションを発散させる準備をしていたようです。


子ども自身が100点じゃない自分を受け入れることは、けっこう難しいようです。
何でこの程度の失敗で気持ちを切り替えられないんだろう、と思う日々もたくさんあります。
でも、そうした日々を重ねていくうちに受け止められる日も出てくるみたいです。
もちろん、うちの子ももう大丈夫、というわけではありません。
これからも、うまくいかなくて地団駄を踏んでいることもあるでしょう。
けれど、そうした経験も必要なことなのだと受け止めて見守っていきたいと思います。

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