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恋する少女は無敵:河内美穂『海を渡り、そしてまた海を渡った』(現代書館)読後

蒼紅梅(ツァンホンメイ)の蒼紅梅たる秘密

 河内美穂著『海を渡り、そしてまた海を渡った』(現代書館 2022年7月31日第1版第1刷発行)。出来立てである。
 戦前から戦後を経て現代へ。
 中国と日本との間。あらゆる面で困難な状況を強いられた女たちの物語。それぞれの語りから紡がれる、絶望的困難を乗り越える姿。あるいは困難をともに、あるいは困難をやり過ごしながら、それでも生きていく姿が強烈だ。
 この際ボクは、蒼紅梅(以下、紅梅)について述べよう。
 行間から立ち上がる、その生きる姿勢の端正さ。他を省みないひたむきさ。じつはその端正さやひたむきさが他者を遠ざけ、離婚という、魂の危機と呼びうるの事態を招く。それでも、やはり自分らしさを見失わず、追い求めるものを求めるさまが魅力的なのかもしれない。
 一方紅梅は、パートナーとは日本と中国とで離ればなれで永年暮らしてきた。老齢期に至り、また共に中国で暮らそうとパートナーに提案し、今度はパートナーに離婚を切り出される。
 社会生活の面では、じつに不器用な紅梅。
 ボクが紅梅に惹かれる秘密は何か?
 本稿は、紅梅の少女時代の魅力的なエピソードを含んだ章である「ふたたび、蒼紅梅」に焦点を当てる。
 そこに紅梅の紅梅たる秘密があると直観するからだ。

日本鬼子(リーベングイズ)の宿業


 さて、紅梅。
 母は王春連(ワンチュンリエン 中国残留孤児)。
「日本鬼子」の宿業は母子に襲いかかる。
 母・春連はスパイ容疑で激しい拷問を受ける。
 娘・紅梅はその血縁者ゆえに小学校を「数か月で中途退学させられ」(p.157)「当然私たちきょうだいは『黒五類』の最悪の階層に組み込まれた」(p.143。強調部は高瀬。このように、彼の国における「人権問題」がさりげなく挿話されながら、作品はその現実感や歴史批評等で奥行きを深めている)。 

「私は食堂の生ごみの処分係を命じられていた」(同ページ)

 奉仕の強要という倒錯が、十六歳の少女の、その血脈のゆえに実行される。
 紅梅に拒否する権利は、ない。
 食堂での生ごみ処分係の日々は、十六歳の少女の精神を徹底的に追い詰める。紅梅は自己をいっそう矮小化させる。紅梅には自分の存在する意味がわからない。

「この郷に医者が来るってさ」
朝食を済ませた大人たちが、男も女もタバコを吸いながら、たむろして噂話をしていた。                              (p.144)

 矮小化した紅梅の存在感は、彼女が「奉仕」する人々が吐き出す煙草の煙に霞んでしまう。

言葉が連れてくる世界

 だが、この「医者・王瑋」こそが紅梅を別世界に連れ出す。
 王瑋(ワンウェイ)は当時の政策「下放」(シアファン「知識人は労働者や農民に学ぼう、働きながら学ぼう」という方針の下、学生が僻地農村に送られること。p.145 ll.8-10を高瀬が引用し、説明用にアレンジした)によって、ここ興安嶺(中国東北部)に来たのだった。興安嶺は近代医療とは無縁だった。
 訪問診療する王瑋の助手として紅梅は働くことになる。
 つまりこれで紅梅は「生ごみ処分係」からとりあえず解放される。
 さらに王瑋は紅梅に「言葉」を教える。ここにボクは注目する。

  ーー脈・熱・痰・舌・便
  私がはじめて覚えた文字だ。(中略)
  私は五つの単語を発音しながら、大地に何度も書いた。手首に指を当ててはど
 くどくとはねる力を自覚し、首周りの血管の感触を考えながら覚えた。
                                (p.151)

 ボクはここに、P.フレイレの『被抑圧者の教育学』を、特に「課題提起教育」における「人間化」を思い出す。
 さらに、

 単なる文字ではない。人の体と病にかかわるということが一層私を奮い立たせ た。(同ページ)

 紅梅の内面に知識の火花が散る。
 最も感動的なのは、王瑋が紅梅にその姓名「蒼紅梅」のよみ解きを伝える場面だ。

「冬の厳しい風雪に耐えた後、真っ先に咲くのが梅の花だ。〈花の兄〉ともいう。
(中略)しかも君の場合は姓が青色だからいいね。ぼくは青空にきりりと咲いた
赤い梅の花を想像するよ」(p.155)

 王瑋は紅梅の、矮小化したこころを解放した。その存在意義を伝え、価値の保証をしたのだ。

 名前に意味が与えられた瞬間、私自身もそれに見合う価値が生まれたような気がした。                            (p.158)

 紅梅は自分が何のために生きているのか、自分の存在意義は何かを自分自身に問い始める。
 まさに自分の獲得した言葉で。

無敵の少女

 二人の関わりは強制的に終わる。
 王瑋が「異動」(実質的な懲戒で、追放)となり、紅梅も元の仕事に戻る。
 だがもう、紅梅の内なる火花は消えない。
 すでに無敵の少女は、知識に向かって突き進む。
 なぜか?
 「新しい窓」から「かけ離れた世界」がやってくることを知ったからではないか。

「ごみの中から古新聞を拾い上げ、医学以外の世界も学んだ」(p.159)
「活字は自分とはかけ離れた世界をつれてきた」(p.164)

 「かけ離れた世界」とは、「活字」がもたらす知識。そして、自由だったのではないか。
 すでに、かつての蒼紅梅はいない。
 こうしてみると、紅梅が鮮やかに変身するさまがじつに魅力的なのだ。

 恋する少女は、そして言葉を手に入れた少女は、無敵だ。


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