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祖父のことを考えていた。

祖父はすでに他界している。とても無口な人だった。
無口すぎて結局、祖父という人がよくわからないままにお別れすることになってしまったわけなのだが、父はそんな祖父をとても愛していたのだと最近になってわかってきた。

それはそうとしても、私の母も祖父のことがよくわからないまま一緒に暮らしていたという。彼のことをきちんと理解していた人はいたのだろうか。
口数が少なく、実直で、黙々と仕事をしていたらしい。表向きのことは祖母がやり、本当に黙々と。でも何が楽しかったのだろうか、何が悲しかったのだろうか。今となっては誰も祖父のことを深く語れない。

私が最近思うのは、祖父はかなり耳が悪かったのではないか、ということだ。

今のように補聴器が発達している時代ではなかった。耳が悪いと、会話も面倒になるようだ。身近な老人たちが、補聴器を付けていても会話が億劫な時があるのだと溢すことがある。聞き取れなくて聞き返すのが申し訳ないし面倒になってくるから、おのずと口数が減ってしまうのだそうだ。

会話をあきらめてしまう。これは、耳が遠くなったことのない人には理解しようのないことだ。

同じように老眼が進んでくると、本を読むのが億劫になるらしい。
情報というのは、そういった受容体に問題がある世代にもきちんと届くように届ける努力をすべきだと思うが、ことアウトプットに関しては本人にゆだねられている。

アウトプットはきっとだんだん難しくなってくるのだろう。アウトプットしないと、きっと能力はどんどん衰える。あきらめざるを得ない状況になって、やっぱり人は諦めてしまうのだろう。それが老いるということかもしれない。

祖父は、きっと耳が遠くなっていたのだろう。もっと話がしたかった。もっと話を聞きたかった。もう、祖父が亡くなって何年経つだろう。
今になってそんなことを思う。自分も年をとることの怖さを微妙に感じ始めているのかもしれない。

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