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結局

夏は必ず図書館に戦争関連書のコーナーができるから、比べ読みをするのに都合がよい。

コロナで禁足令がでたころ、リアルタイムでの実感では昭和末期の「歌舞音曲の自粛」を連想したし、さらには戦時中を想った。生活に対する規制という観点から戦争本を読む。
おおよそ災害というものは、持たざるものにより厳しく、持てるものにはそこそこの損害ないしは焼け太りという性質を持つ。『ガラスのうさぎ』は70年代生まれにはいやというほど読まされた本で、当時は批評的な読みは堅く受け入れられなかった。こどもの頃はそれが苦痛だったが、大人になってからは何度か好き勝手に読み返している。

まず戦前の東京の、商業的重心がいまよりずっと東寄りであったことを考慮しなければならない。江戸時代からの日本橋、御一新以降の新開地である銀座はその地位を譲らぬとして、大川の川向うである(東)両国もそれに拮抗する勢いがあった。
福島浜通り出身の職工から、そこへ工場二軒を構えるまでになった『ガラスのうさぎ』高木敏子の父は、だから相当な立身出世をした人物である。終戦直前の二宮での横死に、縁故疎開先の家がお骨にするまでサポートしたのもひとつには潤沢な仕送りがあったからだ(と、高木敏子本人は晩年まで公にはストレートにいわなかったらしいが)。
戦前の東京のあのエリアで、丁稚からたたき上げて工場(店)二軒もつなんてのは、ウチのじいさんといっしょでサクセスストーリーである。そういった勝ち組が焼け払われても、つまり1945年3月10日過ぎの時点で日本という国は白旗をあげなかったという事実。

また別の本を読んでいる。この著者のおうちは単に裕福というだけでなく日本のセレブリティといっていい。戦前の東京で避暑にいった先が、千葉の海岸か信州の高原地かという違いがある(全国的に真夏が30度超えをする令和と違い、昭和の高原地は普通に20度そこそこだったのだ)。家内の被害の大小は、階級の上下で差がでているわけで。この階級まで潰れるかも、となってようやく「全面降伏」の決定が国家として可能となった。

カネじゃなくてクラスなのね、と思うと、じゃじいさん達の努力と経済的成功はなんだったのかねといいたくなる。成功のセの字もない不肖の孫がなにをいうか、ではあるが。

(高木敏子はしかし、なにがしかそのリソースに支えられて荏原製作所かどこかに就職し、のちに子会社役員となるエンジニアの夫を得たゆえ執筆活動にライフタイムを割くことができた。さっぱり貧乏しておるが落書きのできるnoteというこの場所を得られている自分もまた時代の子かもしれぬ)


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