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的を狙うな! 【オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』に学ぶ】

ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルが著した『弓と禅』は、Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズが愛読していたことで知られています。
この本の中で説かれている境地で有名なものと言えば、「的を狙うな」ということでしょう。

私は師に、何故、どのように狙うのか、今まで我々に少しも説明されないのかと尋ねた。
私は、的と矢の先端の関係とか、的中を可能にする実証済みの狙いがあるに違いないと思ったのである。
「当然、あります。」師は答えた。
「そして(的中させるために)必要となる構えも、自身で容易に見つけ出せるでしょう。けれども、もしこれでほとんど、どの射も的に中たるようになったとすれば、あなたは他ならぬ、射の芸者となり、自らをそのように見せることになります。
その中たりを数える野心家にとっては、的はみすぼらしい一片の紙きれに過ぎません。
弓道の『大いなる教え』は、こういったことを全く悪魔の仕業と見做します。

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』魚住 孝至訳(角川ソフィア文庫)

これこそが、「的を狙う」行為です。
ヘリゲルに弓を教えていた師匠は、当時日本一の弓術家で「弓聖」と称されていたほどの名人=阿波研造なのですが、単に的を狙う弓を良しとしませんでした。
彼は、嘉納治五郎の「柔術から柔道へ」に影響を受け、それまでの「弓術」を「人間学を修める行としての弓」を追求する「弓道」とすることを提唱した人物です。

『大いなる教え』は、射手から一定の距離をとって置かれた的については何も知りません。それが知っているのは、決して技術的なやり方では射中いあてることが出来ない的であり、この的のことを、もしそもそも名を与えるとすれば、仏陀と名付けているのです。
(中略)
たりということを頭から消しなさい!
たとえ、どの射も中たらなくとも、弓の達人になることが出来ます。
的に中たるのは、あなたの最高に高められた無心、無我、沈潜
――そうでなく、あなたがこの状態をどのように呼ぼうと構いませんが――
という状態の外的な証拠であり、確認に過ぎないのです。

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』魚住 孝至訳(角川ソフィア文庫)

何が何でもまとててやろうと必死になったからといって、的にたる訳ではなく、自分でない「何か」が動いた時に、「自然と矢が放たれ的に中たる」ということが紹介されています。
それは、枝に積もった雪が、突然その重みによって、ドサッと落ちるような自然さであるとしています。

雪の重みによって、押えられ、より深くなると、常に笹は身動きしないでも、雪は重みで突然、滑り落ちます。
これと同じように、一杯に引き絞って満を持して待っていなさい、射が生じるまで。
そうすれば、本当にそうできます。
引き絞りが充実して(機が熟せば)、射は生じざるを得ません。
雪が重みで笹から離れるように、それを考える前に、はつは射手から生じざるを得ないのです。

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』魚住 孝至訳(角川ソフィア文庫)

ヘリゲルと師匠の間では、「自分ではない何か」のことを『それ』と表現しています。

ある日、私の射が放たれた瞬間、師は叫んだ。
「それが現れました!お辞儀しなさい」
(中略)
「これが正しい射でした。」
と師は断定された。
特別に良い射が出た後で、師は私に尋ねられた。
「『それ』が、『それ』がてるということが、
 何を意味しているのか、今やお分かりでしょうか?」
私は答えた。
「私はそもそも、もはや何も理解していないのではないかと思われます。
 最も単純なことすら困惑させます。
 弓を引き分けるのが私であるのか、
 私を一杯に引き絞らせるのが弓であるのか、
 的にてるのが私であるのか、
 的が私にたるのか。
 『それ』は身体の眼には精神的であり、精神の眼には身体的です。
 それは二つであるのか、どちらかであるのか。
 これら全て――弓と矢と的と私とは、相互に絡まりあっていて、
 もはや分けることが出来ません。
 分けようという要求すらせました。
 というのも、私が弓を取って射るやいなや、
 すべてはあまりに明らかであり、はっきりとしており、
 おかしい程単純なことですから!」
その時、師は私を遮って言われた。
「今まさに、弓の弦があなたの中心を貫き通りました。」

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』魚住 孝至訳(角川ソフィア文庫)

これは禅の世界でいうところの「物我一如」や「主客不二」といった境地なのでしょう。
自己の内部にある霊性や神性、聖性や仏性というものが光を放ち輝き始めると、外的世界にある万物も同調して光り輝き、道ばたの石ころですら輝いて見えてくるといった歓喜の極致を表現しています。
「主体と客体は、もともと一つである」という深い悟りは、お釈迦様が言った「天上天下唯我独尊」と同じ境地なのかもしれません。
あらゆる技巧を尽くして的にてようとする小我を捨てて、宇宙という大我と一体となり、本当の自分=真我が目覚めた瞬間に矢を放つことで、初めて射中いあてることができるのが、師がヘリゲルに伝えようとした「的」なのです。

ヘリゲルが弓道を修得する上で到達した境地とまではいかなくとも、現実界の中でも、似たようなことを体験することは出来ます。
就職や受験、オーディションなど、人生を左右するような大事な場面では、人はとかく我力でその壁を乗り越えようと必死になりがちです。
しかし、ある程度、対策を練って万全な準備をした後は、肩の力を抜いて、自然体で構えていた方が、かえって物事はスムーズに進んでいったりするものです。

的は「狙うもの」ではなく、的と一体となった時に「中たるもの」であるという境地は、我々にとても大切なことを教えてくれているような気がします。

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