価値というもの

 価値というものは、価値観によって人それぞれ異なります。価値観の違いにより人と人とが違う(たがう)ことはよくあることですが、価値観の綱引きをするから軋轢を生み結果、争いが生まれます。

 人は皆、違うものであり、考え方、容姿、性別、体力・・・。同じ様ということはあったとしても、同一であることはなく、一卵性双生児についても、似てるということはあっても同じということはありません。

 価値観の相違はあって当たり前であり、互いが引き合うのではなく、互いに歩み寄ることが必要であり、そのために互いを知ることが必要ではないかと思います。差別が最たるもので、自分ともしくは平均と比較して異なるからという理由で差別が始まり、結果としていじめなどに発展する。

 いじめに関しては、いじめる側、いじめられる側の心的歪みにより生じるものもある為、完全に差別が起因しているわけでありません。しかし、世の中には弱者は虐げられて当たり前のような風潮も存在していることが大きな要因ではないかと思います。

 子供の世界は、大人の世界の縮図のようなものではないか。大人のいじめが陰湿になれば子供のいじめも陰湿になる傾向にあるように感じる。子供の世界のいじめを観察し、大人の世界を見直すことが全体的な心的歪みを取り省くうえで必要なのではないかと思う。

 価値観の話に戻るが、一人ひとりが持つ価値観が是でも非でもあるわけで、他人の価値観を評価することが間違ている。互いの価値観を尊重しつつ、折衝していくことで歩み寄ることができるのでないか。互いの価値観を否定し続けることは、何も生み出すことはない。

障がい者間の価値観の折衝について 

私は仕事柄、障がい者と仕事をすることが多い。障がい者どうしはどうしても自分の意思を曲げにくいため、違う(たがう)ことが多い。仲裁はしますが、双方に対し同意することはあっても否定することはありません。価値観を否定する必要がないからです。双方の言い分を聞き、では双方の意見をどうまとめたら、納得できそうか考えさせます。ここでのポイントは、意見を個人から引き離すことです。意見というものだけで扱うことがポイントです。自分の意見から、「意見書」に変えてしまうのです。そうすることで理解してくれます。

 双方での折衝は意味がありますが、仲介者による言い聞かせは納得しないため、あまり意味がありません。都度、折衝経験を積ませ人間として成長させることで、私たちが介入しなくても、当事者だけで折衝できるようになるのです。

仕事をする上での価値観について

 他人の価値観を否定することは、自分の価値観を否定される可能性や自分の価値観を自己が否定するきっかけを作るきっかけとなります。他人の価値観を肯定することで、自己の価値観を肯定することができるようになり、価値観について是や非ではなくより冷静に見つめることができるようになります。

 その結果として様々な場面で判断を迫られるとき、他人の価値観に惑わされる事がなくなり適切な判断ができるようになります。

 人間は判断するときに他人の思考が介在するとき、判断を鈍らせます。そのため、部下を指導する際、私たちは自分の存在をできる限り消し判断しやすい環境を作ることが必要だと考えています。ただし、報告なしに部下だけで行動させることは最悪で、上司は何の仕事もしていないことになりますので、必ず報告を受け責任を受け取ってから実行に移してもらうことが必須と考えています。

 人は、自分の価値観にこだわりすぎてしまい、その価値に妄信してしまい意固地になってしまいます。今一度、自分の価値観はどんなものがあるのかを自分から取り出して、観察してみてはいかがでしょうか。そうすることで新たな自分を見つけ出すことができるかもしれません。

私たちは子供たちに、見られています。子供は大人の写し鏡です。今現在の社会は子供にとってどのように映っているのでしょう。

自己を見直し、恥ずかしいという後ろ向きの意識ではなく、どのような子供たちに育ってほしいかを念頭に自己を振り返ってみてはいかがでしょうか。私たちが変われば、子供たちは変わります。子供たちに指導しても、自分たちが変わらなければ、子供たちは私たちを馬鹿にするだけです。

 現在の子供たちが未来を作ります。どのような土台を子供たちに残せるかは私たちにかかっています。他人事ではなく自分事として意識して行動して頂けたらより良い社会が出来上がっていくのではないでしょうか。

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