100万人に6人の難病が発覚したとき、最後の晩餐
私には妻と息子二人がいる。私は妻のことを呼ぶ時「あなた」とよぶ。
文章上ではカミさんとよんでいる。私の長い入院中も家を支えた命の恩人だし、夫ぶって妻とすら言いにくいし、もっというと「奥さん」というよりは「表さん」だ。
今日もアクティブに働いている。
身入りがあろうがなかろうが全力なのが彼女だ。
なんだか、男女逆転してるけど、5年もそんな調子なのである。
内心ちょっとだけ亭主関白ってやつをやってみたかったなとは思ったけど、プロポーズだって彼女の方からだからまあ、無理だろう。
忘れもしない寿司が回るお店で、結婚するか別れるかと迫る、なよなよした男に愛想を尽かしかけたプロポーズ。優柔不断を自覚している私に断る余地はなかった。
その時はまだ元気で、結婚して流石にひもは嫌で就職した。すぐ子供ができたので念願の一家の大黒柱となった私だったが、二人目が生まれるという時に、病気が見つかったのだった。
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ある日仕事帰りに風呂に入ると身体中があざだらけだった。重いものは運んだ記憶があったが、そんなにぶつけた記憶はなかった。
いつの間にかぶつかっていたんだろうと思ってしばらく仕事に出ていた。ちょうど年度末で会社が忙しい時期でもあったので、不調にも気づかず。
貧血が原因だったと後に分かった。息苦しさは歳のせいだと思っていた。35歳の時だったはずだから、後から考えたらおかしいんだけど、当時は気にも留めなかった。
あくる朝、胸が痛くなって病院に駆け込んだが原因は不明。1日休んで次の日も出勤した。
カミさんに後で聞いた話だと、もう死ぬかと思うくらいの顔色だったらしい。
それなら先に言ってくれよと思ったが、今思えば、いうに言えなかったのだろう。夫が死にそうだなんて相談できる場所、病院しかないのに、医者にはつき返されてしまったのだから。
その後、会社の健康診断で行った血液検査ですべての血球が少ない状態だとして、突然電話で呼び出しされ、紹介状を書かれ、市内の一番大きな病院に行かされた。
最初の検査でははっきりした結果は出ず一旦家に戻された。
ただし、絶対になんらかの異常が起こっていることは間違いなかった。
病院の先生には入院は確実だと言われた。
入院前に栄養のあるものをと私と身重の妻と息子で鰻屋さんにいった。
鰻屋さんなのにバラードがかかっていて、しかもそれが小田和正の「たしかなこと」。
・・・生命保険入っておけば良かった。家族に何も残してやれなかったと思って泣いた。
そしてダメ押しの槇原敬之の「僕が一番欲しかったもの」が次に流れてきた。好きな曲でもあるので涙が止まらない。号泣が息子にバレないように鰻を食べた。
妻も泣きそうになりながらも、励ましてくれた。
ほんと頼もしい。
次の日、私は難病の「再生不良性貧血」であると診断された。
100万人に5、6人しかかからない難病であり、治療方法は限られている。
stageは5段階で4。
治療がうまくいかない場合、5年生存率は50%を切ると。
私はもう泣かなかった。戦うしかないのだから。
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