見出し画像

最後の『戦場のメリークリスマス』・後編

バッハの『ゴルドベルク変奏曲』遺作30周年を記念したグレン・グールドのムックを読んでのニワカの音楽談義のが続きます。

19世紀のロマン派と呼ばれる作曲家たちによるクラシック全盛期が終焉に向かい、現代音楽が始まらんとする時期に登場したのがフランスのクロード・ドビュッシーという音楽家だ。

『月の光』という美しいことこの上ない代表作ならば、耳にした人も多いはず。

ドビュッシーが1889年のパリ万博でガムランに魅せられて、それまで習得してきた西洋音楽理論によらずとも素晴らしい音楽はあると気づいたエピソードは有名で、故に彼は古典派クラシックとは一線を画し、現代に至るまでまで影響を及ぼす存在になり得た。

坂本龍一もまたドビュッシーに強い影響を受け、また亡くなるまでずっと彼の音楽を愛していた。

先のムックでは、「バッハとドビュッシー、この二つがあれば自分は充分だ」とすら断言しているほど。

ムックの対談において坂本龍一は浅田に対して、なぜグールドは「フランスもの」(ドビュッシー、ラヴェル、サティあたり)を弾かなかったのかなと問いかける。

浅田彰という人はどんな文化事象であれ極めて簡潔明瞭に説明できる人で、ここでも明瞭なコメントを残している。

対位法という西洋音楽理論の巨大な支柱こそが至高なのだとしたグールドにとり、もう一方にあって同じくらいの大きな支柱である和声の音楽は、水平と垂直ほど異なるものであり、ドビュッシーに頂点を見る和声の音楽を彼は受け付けなかったのだろうと言う。

ドビュッシーの音楽は、ペダルをふんだんに使うことで知られている。
故に(故にと敢えていうのは、僕の持論によるものです)彼の作品は複雑で豊かな和声を多彩な音色で弾き分けるものになっているのだとも。

(ちなみに和声についての説明もまたWikipediaを参照してください。)


グールドのピアノはペダル使いを徹底的に避けたが故の美しさを追求したものとなったが、その分音色やダイナミクスという観点からはモノトーン的とも浅田は語り、そうであるならば先に述べたドビュッシーの和声の音楽とは根本から異なってくる。

坂本龍一の問いかけに応じて、浅田彰が水平と垂直ほどに異なると語った、対位法のバッハを弾くグールドと和声を極めたドビュッシー。

西洋音楽というくくりに入るとはいえ、まったく異なるこの二人(この稿ではバッハとグールドはセットとしよう)を同じくらい愛しその影響下にあることを隠さなかった坂本龍一という音楽家が、最後に残した動画録音という位置付けにあるのが2022年12月11日のピアノ独奏による『戦場のメリークリスマス』だ。

耳をそばだてて聴いてみよう。

誰もが知るあの美しい主旋律が最初に置かれる『戦メリ』。
この動画録音ではまさしくグールドのように指だけで音を出して静かに始まり、しかしそれは天上の美と呼べるレベルにまで到達していることに気づく。
もちろんペダルは一切使っていない。

坂本が最も嫌ったピアニストはルービンシュタインやオスカー・ピーターソンなのだが、彼らは大ホールの隅々の聴衆にまで届く大きな音を全身の力を込めて出す。
背筋を伸ばし、肩から鍵盤を叩き下ろすように弾く。
それは下品極まりないものだと彼は話す。

グールドはその対局にいたピアニストで、冒頭から坂本が理想としてきたピアノ表現が実に丁寧に演奏されている。
かつて演歌みたいで嫌いだと語ったこの曲のセンチメンタルな側面も、グールドに倣って決して感情に流されることなく、一音一音を極めて繊細に「置いていく」ような感覚で弾いていることもわかる。
決してその時の己の気持ちに流されないという強い意志がそこにはある。

そうして主旋律が繰り返され、それではつまらないからと曲調を変えて作曲したところは、東洋的な音階が特徴的とされたものでもあって、それはまた正当なドビュッシーの後継であるとの宣言にもなっている。

そしてこの動画録音では、ここぞとばかりにペダルを使い、強く濁った音が印象に残る演奏となっており、和声の美しさを強調するかのようにその旋律を奏でていく。
和声使いの名手、ドビュッシーを継ぐ者であることを音で訴えてくる。

技術的にはただ単にペダル使いを巡る違い、しかしそれは西洋音楽の両極に位置する二つの理論的な支柱の違いによるものであるとの彼の知性により導かれた結論が、それぞれをはっきりと弾き分けられることで伝わってくる。

その後はまた主旋律に戻るが、今度はペダルも使いながらの重厚な演奏になっており、その弾き方はこの曲のクライマックスに相応しいとしか言えないものだ。
そしてそのまま終盤に入って終わる。
ここでも決して感情に流されてはいないが、強い思いが込められていることは明瞭にわかる。

もう何百回と弾いてきたであろう『戦メリ』。
過去の動画録音を聴くと、仕方がないとはいえある程度ルーティンになってしまっていることは否定できないように、僕には思える。

それを坂本龍一は全面的に見直し解釈し直して、自分が終生好み影響され続けた西洋音楽の先達が残した最良のものを意識的に弾き分けて、根本的なレベルで演奏し直した。

それが最後に残した坂本龍一の『戦メリ』である。
美しいのは言うまでもなく、しかし極めて批評的な演奏として締め括った。

数分の小品であるにもかかわらず、まったく異なる学理を矛盾なく落とし込み、更にそれぞれが相対するそれぞれの魅力をむしろ引き出しているような演奏。

坂本龍一らしい、最良の『戦メリ』録音となった理由はここにあると僕は考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?