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関曠野 という人を、80年代に書かれた小論から再評価する試み その1

大学に入って、全然真面目な受験生じゃないまま出会った人たちは、やはりレベルが段違いでありまして…

大学の講義も今からするとすべて受講しておくべき素晴らしい先生方が揃っておられましたが、僕は高校入学してすぐから、すっかりガッコの授業とセンセーというものが嫌いになっていたので、学問はサークルで学びたいと選んだ先では、とても付いていけない議論が熱心に交わされていて、特にチューターみたいな位置におられた #稲葉振一郎 さんからはたくさんのことを教えていただきました

関曠野という人についても、やはり #稲葉振一郎 さんから教えていただいた方なのですけど、これは途轍もない人物だとすっかり惹かれてしまい今に至ります

ずっと後年になり、とある卑劣な人物の影響を受けてネトウヨ爺に成り果ててしまったものの、その論理立ては容易なツッコミを軽く跳ね除けるレベルで、見通しを言えば予言者のようにズバズバ当たり、僕は強い反感を持ってはいたものの、この爺さんは暗黒に堕ちてもなかなか手強いと思わされたものです

関曠野さんに師叔する人は今もそれなりにおり、そうした方のブログで、80年代の小論が紹介されていました

関曠野さんが1985年に書いた箇所に限り、二つの小論を丸ごと手を加えず、二回に分けて引用コピペ(ダサい😓)をさせていただきます

読めばわかるとは思うんですけど、まぁとんでもない人ではあったんです…

(知名度では比較にならない柄谷行人と浅田彰との鼎談でも、まったく引けを取ってなかったりしています

今時で80年代に注目された思想家ということならば、注目されている柄谷なんか比較にもならないと断言できます

柄谷で読むなら、戦前の日本人思想家のレベルの高さを指摘している『近代日本の批評』シリーズしかないでしょう

彼は最新にしておそらく最後のアレが酷すぎて、それまでの業績を全部ゴミにしたとしか思えないんです…)

先述したように二つの小論を二回に分けて丸ごとコピペ😓いたしますが、その前提として

関曠野さんが未だに注目に値すると考える見識ある方たちは、自分も一応その末端にいるにはいますけど…、

彼が入念に準備を重ね、朝日新聞出版社から刊行予告まで出ていた、社会契約論で知られるジャン・ジャック・ルソーに関する本格的かつその全貌を明かすはずであった、まず間違いなく未刊のまま終わる『ルソー論』へ挑む確かな道のりをずっと見てきたからとしてもよいかと僕自身は考えてきました

両者は「情念の思想家」として似たもの同士でもあり、完成していたならば「ルソー論」の決定版になっていたのは間違いないとも思っています

「ルソーに関する考察」なら既に巷にナンボでも溢れかえっていますが、そのどれもが的外れなシロモノとしか思えない人たちがずっと注目してきた、そのような人物であり、今現在においてこの観点からのみで再評価して捉え直したとしても、未だ全然期限切れになっていないと判断しているからに他なりません

そうしたところから、

①この時点から既に関曠野さんがルソーに挑み始めたと読める内容であること

②ルソーの社会契約論が「社会と教育の果てしない連環から立ち上がる民主制」から考えるべきものであること

③ルソーの社会契約論が、彼に影響を受けたフランス革命以降のドタバタのフランス🇫🇷近代史を前段として、北米大陸に渡ったピューリタンたちに引き継がれたこと(自由の女神が象徴していますよね)

④ミルトン・フリードマンらによる「リッチマン革命」(これも関曠野さんが鋭く命名)により、何よりカネ儲け優先でカネ持ちが一番偉いという国に米国が成り果てるまでは、遠く古代ヘブライの民たち(彼の教育論で頻出しています)や、その人たちとは水と油ほど遠く異なる古代ギリシアのポリスの住人たちまで遡る「人間として共通する良心のような何か」を持つ人たちが目立つ存在で居たこと

⑤その一例として、代表作とされる『ウォールデン 森の生活』で知られ、「アメリカのエレミヤ(紀元前古代ユダヤの最重要な預言者の一人)と呼ばれ尊崇の対象でもあったヘンリー・D・ソローが、『ウォールデン』で示した神の与え賜うた自然の秩序への大いなる讃美から、同時代人のチャールズ・ダーウィンの熱心な読者でもあったが故に、その影響を正しく受け止め、『コッド岬』での混沌とした世界認識に変貌していく、非教条主義的なキリスト教徒であること

⑥日本国憲法の草案に関わり、日本女性と親しく交わっていたからこそ「女性の権利」を盛り込んだベアテ・シロタ・ゴードンもまたその系譜に連なる一人であること

⑦現在では一旦途切れたかのように見えるこうした性質を持った最後の一人が、イラン🇮🇷イスラム革命で米国の傀儡でしかなかったパフラヴィー王朝を打ち倒し、その延長で血気盛んな若い男性たちが、在イラン米国大使館を占拠したものの、一切戦力を使わなかったジミー・カーター元大統領と看做され得ること

⑧クエーカー教徒(キリスト教プロテスタントの一派)のエリザベス・ヴァイニングが教育担当となり、彼女と同等かそれ以上の、ヨーロッパが長い歴史を通して生み出した最良のものをお持ちになっていた美智子上皇后との二人から強く影響を受け、現上皇が考え抜いた今の皇室の在り方に、少なくとも彼の孫の世代までは続くほど、こうした思想の連なりが、なんといいますか日本では最も強く残っていること
(ただし、現上皇は天皇家にまつわる私的に受け継がれてきた行事等に関しては、知らぬ人が驚くほど重要視しており、細かなことまで手を抜くことなく強い意思を持って守り抜いてきた人でもあります)

⑨ご紹介する1985年に書かれた小論が、関曠野さんが目指したルソー論の中間報告としても読める、『教育、死と抗う生命―子ども・家族・学校・ユートピア』1995年刊と『みんなのための教育改革: 教育基本法からの再出発』2000年刊(いずれも太郎次郎社)にまで真っ直ぐ繋がっていること

などがざっと頭の中を巡りました

こうした認識があったため、ニュージーランドの賢人が、わざわざ日本語で書いてくれたXのポスト(noteにまとめ直してくれてます)にも即応することができました


以下、丸ごとコピペ😓の引用になります

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関 曠野「忘れられた思想史の発掘」1985年11月
出典:関 曠野『野蛮としてのイエ社会』1987年3月、御茶の水書房、pp.378-80
初出:朝日ジャーナル、1985年11月1日、朝日新聞社

 どうせ人間はみなエゴイストなのだから資本主義は不滅なり、という俗論がある。しかしながら現代人に固有の打算的なエゴイズムは、実は資本主義の文明が長い年月をかけて練りあげ、一つの人為的な規律として我々にたたき込んだものなのである。現代人のエゴイズムがどれほど奇妙な倒錯した代物であるかということを、例えば、マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムの禁欲の近代的営利精神への逆説的な転化として示した。

 ハーシュマンは本書でこのウェーバー説に対抗して、もう一つの資本主義思想の系譜、すなわち賢明で平和的な営利の精神こそが情念に操られて恣意と専制を超克し、信用するに足る公共秩序を生みだす、という思想をマキャベリからスピノザ、モンテスキュー、重農主義者やジェームズ・スチュアートをへてアダム・スミスにまでたどってゆく。小冊ながら、一つの忘れられた思想史上の伝統を再発掘しようとする野心的な試みといえる。

 著者によると、パスカルのような近世西欧の思想家たちに見られる、英雄的理想や情念の破壊的性格に対する非難や警告は、貴族対ブルジョアジーの階級闘争に直接関係したものではなかったという。ではいかなる社会的破局が情念への攻撃にからんでいたのかということになるが、残念ながら本書ではこの点は明らかにされていない。ともあれ西欧人には情念という破壊的な存在の脅威に対して三つの方策があった。つまり力で制圧するか、うまく利用するか、情念に情念を対抗させて相殺するかである。そしてマキャベリに源を発する三番目の方策がホッブズの社会契約説となり、ついでモンテスキューの、商業と経済活動は専制を抑制する平和と相互依存の秩序をもたらすとする説、スチュアートの複雑な近代的経済システムは専制政治の介入を不可能にするという議論に発展していく。しかるにスミスは「経済の政治的効果」を説くこの思想史的潮流の終りに位置し、あらゆる情念を事実上富の増大と生活水準の改善への衝動に還元し、非経済的欲望も経済的手段により満たされうる、というパラダイムを提出することで利益対情念の二元論を清算してしまう。これは経済学なる学問の素性を洗う際には重要な指摘である。

 他方、このモンテスキューらの説に対する強力な反論は、アダム・ファーガソンとトクヴィルからやって来て、両者は、営利追求に専念する市民たちの非政治化に加えて規律ある市場秩序を維持する必要から、商業に基礎を置く、新しい専制が出現する可能性を指摘する。

 著者によれば「利益の支配」のヴィジョンは、利益本位の社会秩序がもつ恒常性と可測性および金銭欲の相対的な無害さを根拠として擁護されたという。そのかぎりでは著者の主張は、先のウェーバー説に対する補完的な反論を意図したものであるにもかかわらず、資本主義にとっては予測可能な法と行政が不可欠であるとするウェーバーのもう一つの主張と重ならないこともない。

 だがハーシュマンの寄与は、「ウェーバーは、資本主義的行動・活動は個人の救済を必死に模索した結果間接的に生じたものだと主張する。それに対して、私の主張によれば、資本主義的形態が普及したのはむしろ社会の破滅を防ぐ方法を同じく必死になって捜したためである」(訳書p.130)という見解にある。資本主義的な〝強欲と金銭欲による組織化〟は、近世の西欧人がその社会の全面的破局に替わる次善の策として採用したものだったーという主張に評者は全面的に賛成であり、この事実は資本主義を超えるのはいかなる社会かという問題を考える上でも決定的なポイントであるように思う。訳者も言うように、本書はユニークな著作というよりは簡潔で交通整理的な入門書とみるべきだろうが、扱われている主題の重要性からすれば、トーニーの『獲得的社会』*1やC. B. マクファーソンの『所有の個人主義の政治理論』*2などとならべて評価されてよい本ではないだろうか。

*1  R.H. Tawney, The acquisitive society, 1920, NY, Harcourt
河出書房新社 世界の思想 17 イギリスの社会主義思想 ラスキ共産主義論/トーニー獲得社会(山下重一訳)他、昭和41(1966)年

*2  C.B. Macpherson, The political theory of possesive individualism, 1962, Oxford
C.B.マクファーソン、所有的個人主義の政治理論、藤野渉他訳、合同出版、1980年

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