「教育」やら「訓練」やら
18歳の自衛官は追い込まれていたんだろうなとは、刑務所での二週間の「訓練」を経験しているから理解できた。
日本の実力組織における教育期間中とは求められる規律やルールを叩き込むためにあり、それはそれで縦社会の体育会系やら不良行為を経験したならばまぁ仕方がないかとはなるものだが、彼はそういうタイプではなかったのだろう。
僕の訓練期間はちょうど一年前の梅雨どきで、刑務所での移動で必ず求められる行進やら、口談禁止というルールがあるため、食後の薬を貰うにしても決められた所作をせねばならないというルール等を叩き込まれた。
冷房などないから汗だくになってひたすら行進させられる。
ここにも細かな所作の決まりがあり、それを守らなかったり忘れたりした者は容赦のない罵声を浴びせられる。
日本の実力組織における「教育」やら「訓練」やらとは、徹底して心身を追い込み上位下達のルールを守らせるためにあるようなもので、その厳しさは普通に生きている人は経験しないものがある。
僕はそれもまた良くも悪くもとは思うが、当時はなぜか他の人よりも大汗が出て体内の水分量が足りなくなっていた。
訓練最終盤に来て、太腿の裏側がたびたびこむら返りを起こすようになり、おそらく体内水分の問題だろうと休息の時間に大量の水道水を飲んで誤魔化していたが、遂に限界が来て、その日は朝からひどいこむら返りで歩けなくなってしまった。
いかにも再任用といった爺さんの刑務官に嘘呼ばわりされ殺してやろうかという怒りが湧く。
こいつは以前から僕に目をつけて、他には言わないし言わなくてもいい難癖をつけてきたが、ずっと我慢してきたという経緯があった。
つまらん爺さんを殺してもな…とスルーしたが、歩けないものは歩けない。
口談禁止で勝手に喋るのは厳禁なので、ルール通り挙手して歩けないから医務を呼んでくれと頼んだが、この日は相性の悪い副担当が担任していたこともあり、許可が出ない。
自分の体は自分にしかわからないものではあるから、行進訓練からは離脱して休む許可だけは得た。
しかしこむら返りがなかなか治らないから医務を呼べと再三挙手して口談許可を得て要求したが、この副担はそれを渋る。
全体に簡単には医務官や医師とは会わせないという雰囲気を感じた。
(だから同じ法務省下にある入管での医務対応もよくわかる)
こうなるともうルールなど知ったことではないので、副担の前に許可なく行ってとにかく痛いし訓練できないから医務を呼べと繰り返した。
押し問答を繰り返していると、塀の中では絶対の権力を持つ所長が見回りに来た。
そこまで言うのだから医務を呼べばと軽く声をかけても、副担にも意地があり、また下の者に舐められたら終わりという強烈な縦社会に貫かれている日本の実力組織独特の世界観もある。
極めて異例なことに彼は所長の「命令」を拒否して、こうなると僕と副担はお互い引くに引けない状態になってしまう。
そのままでは収拾がつかないことは明らかで、おそらく副担以外の刑務官の誰かが呼んだのだろうが、ようやく医務官が来て話を聞かれた。
曰く、服用している炭酸リチウムという薬が水分を排出するせいでそうなるのだと。
なるほどと納得したが、しばらく休んでいなさいと言われ、何の処方もされないまま背もたれの無い椅子に座って行進訓練を見ていた。
サボるつもりはなかったから、しばらくして痛みが収まってから訓練に復帰して、その後はそれまで以上に水道水をがぶ飲みしてやり過ごすことができた。
副担は見るからにアホやなとしか思えない男だったが、正担当の先生(受刑者は刑務官を先生と呼ばねばならないというルールがある)は厳しかったが話せばわかる雰囲気のある人で散々叱咤を受けたが頭に来たことはなかった。
翌日に正担からは「昨日のことは俺が全責任を持つからしっかりやれ」と言われ、やはりこの人はギリギリのところでも信用できると寧ろ意気に感じたものだった。
18歳の自衛官は52歳の教育担当を殺したかったと供述しているようだが、これは叙述してきた経験を持つ僕にはそれなりにわかる。
ギリギリまで追い込まれると、たかが人としての相性の良し悪しで我慢ができるかどうかというレベルの問題になる。
歳の差も大きく、相性が合わなかったとは容易に想像できる。
52歳の教育担当が特別ひどかったとは必ずしも思わない。
彼も彼で追い込まれていて、叩き込まれた規律を優先する意識に傾いていたのだろう。
しかし、こうした事例は今後なくならないとは到底言い切れない。
体育会系や不良に残る縦社会を経験していない今の若い子は、割と甘い世界観で生きているから。
それがダメだとは僕はまったく思わないが。
ちなみに、僕はそうした問題を起こしたことで雑居に配属されてからはちょっとした英雄扱いになり、舐められたら終わりという受刑者間の世界でそれなりに認められたのはよかった。
下手するとそのまま懲罰になってもおかしくなかったらしい。
正担当のはからいを改めて感じたものだ。
少年院の経験者から聞いた話では、訓練が終わると縛りが緩くなる刑務所とは異なり、ずっと訓練期間が続くようなものだとのこと。
更生を目指す教育というよりも懲罰の意味合いが強すぎないかと感じた。
塀の外でやる農作業でも誰一人脱走しないのだと聞いたが、なんとなく納得したものだ。
元自衛官の精神科医がコメントした動画がある。
僕にはわかるところもあるが、感じるところは人それぞれになるだろう。
固いコンクリートの床に足を叩きつけるように行進しないとたちまち罵声が飛んでくる。
真面目そうなヤツが足をひきづりながら行進訓練を続けていた。
見るからに無理だから休んで医務を呼べばいいのにと思ったが、頑ななまでに頑張る。
訓練終了二日前に限界が来て、彼は浴場の脱衣所で動けなくなってしまった。
正担当も情け容赦ねぇなと思ったが、ほっておけと言い残して相手にもしない。
彼は無理矢理付いてきたが、あの痛みようでは後遺症が一生残るだろうと感じた。
真面目すぎるのもまたバカを見る。