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敗者の物語 石田三成と淀殿〜ハシゴを外された歴史〜

 これは二重の意味で敗者の物語である。まず主人公の二人が歴史の敗者であること。そしてもう一つはこの説を推したい私が歴史界隈において敗者であるらしいこと。三成と淀殿−浅井茶々という恋人の組み合わせは私が中学生だった30年ほど前は常識的に流行していた。小説にもそうあったし大河ドラマでもそのような雰囲気で描かれたものであった。最も主人公に対する悪役としての二人だったけれど。当時の私はこの二人を正当化した物語を描きたいと考えた。当時自傷行為に悩まされていた私にとって石田三成は希望の光をくれた歴史上の有名人であった。「大志を抱くものは命を粗末にしたりはしない」(意訳)という彼の言葉に励まされた。とここまでは他の石田三成ファンにも通ずることでもあろう。きっと他のファンは石田三成の名誉のためにありとあらゆる悪説を否定しにかかるだろう。ファンとは元来そうであるべきだと言われれば私はぐうの音も出ない。そしてそういう悪説の一つが三成と茶々の不義の恋であったわけだ。だから三成ファンは否定する。淀殿と三成は親しいとは言えない間柄で対立したという証拠がある。不倫の話は江戸時代の学者のデッチ上げだと。もちろんそういう説も私の中学時代にあったかもしれないが、少数派だった。私は三成と茶々(淀殿)の孤独な魂の惹かれあいそしてその愛に殉じていくという物語が描きたかった。その時に描いておけばよかったという後悔がないわけではない。ただその頃の自分には物語を作る力がなかった。そして私が二人のために筆を取ろうとした時にはさらに歴史の研究が進み…最近では赤の他人に近いような説を誇らしげに語る三成ファンもいるのだ。私の三成と茶々は外からの抗えない力によって見事にバラバラにされてしまった。
 ハシゴを外された−それが私の現在の歴史修正主義に対する感覚である。石田三成が評価されてきたのは喜ばしきことなのであるが、その説をとると淀殿とはむしろ敵対者的存在である、というスタンスを取らなければならない。そして三成と淀殿はそれぞれに新しい恋人や妻の話が取り沙汰されるようになった。先日メルカリで淀殿を検索したところ淀殿と大野治長という淀殿の乳兄妹の恋を描いた小説を見つけた。なんだか賞を貰ったすごい作品らしいがもちろん買う気にはなれなかった。これが最近の淀殿プライベートの定説なのだ。もっとも私に言わせてもらえれば乳兄妹は同じ乳共有した兄妹に等しい関係なので擬似的近親相姦ではないか、と言いたくなるが歴史にお詳しい方々の認識では淀殿の愛人と豊臣秀頼の父は大野治長で決まっているらしい。あるオープンチャットで私が三成と茶々の物語描きたいと言うとそれは時代が求めていない、それでも描きたいなら趣味で描くべきだとあしらわれた。三成は三成で現在『石田三成の妻は大変です』というマンガが刊行されているせいか石田三成はうたという妻を溺愛していたという主張があり、大河ドラマでは三成の運命の相手役は淀殿ではなく初芽という女忍びであることが多くなった(もっとも初芽は現代の巨匠作家が作った架空の存在だが)。私は筆を取ろうとするとそのことに対するストレスではらわたが煮え繰り返る思いだ。まあ趣味で描く分にはどうでも良いのだろうけど私は私の性格上そういう人々に復讐にはとてもならないとしても一矢報いたい、やり返したい気持ちになる。物語上での話だが茶々や三成を使ってそれぞれの論に反論したくなる。悲しむべきかそういうのも創作エネルギーの一つだ。
 意気地なしの臆病者の自分はそんなもの書くべきではない。人を傷つけたくないと叫ぶけれども、そんな弱腰の自分は自分さえ傷ついていれば良いというクズに見えて仕方がない。なんだかんだ高尚なことを言おうと必死だが要はめんどくさいだけだ。人間関係のゴタゴタに巻き込まれるのが怖いだけだ。もっとも私が物語でどう描こうと歴史の趨勢は変わらない。私と反対の立場を取る人は傷つけられたと怒るよりも、私を時代遅れの変人だと笑うのだろう。敗者で変人、それが私が幼き頃より背負ってきた業の鎖だ。だからといって自分の説を書かずに捨てるには惜しいし、それはそうじゃないと主張する人々に負けを認めるということだ。現実にはより史実に近い物語を読みたい、ドラマが見たいというのが多くの歴史ファンの熱望なのであろう。大河ドラマは史実通りじゃないと怒り狂う人もある。それでも立ち止まって考えてみてほしい。自分という人間のドラマを描く時事実通りなら本当に面白いのだろうかと。これは物語文学の翳りの象徴ではないか。それなら大河ドラマなどいらない。歴史ドキュメンタリーでも一年間放送すればいい。話が少々脱線してしまったが、今の史観に基づくならたとえどれだけ名誉挽回が図れれていようと石田三成の大河ドラマも淀殿の大河ドラマも見たいとは思わないが、大河ドラマはコアな歴史ファン以上に大衆の心に訴えかける力がある。歴史ファンだけでなく世間の常識としてああいう歴史観が広まるのは嫌だ。