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母の生い立ち

父の生い立ちを書いたので母も記録しておこうと思います。
母はいわゆるお金持ちの娘。2人姉妹。
一軒家で、自宅の敷地と同じくらいの庭があるおうちが母の実家でした(今は売り渡したのでもうない)。

庭にブランコがあって白い犬(コッカースパニエル)を飼っているというなんとも典型的な感じ😂

お嬢様感というか育ちがいい感じは80超えた今でもあるのですが、両親にかわいがって育てられた感は一切ない感じでした。
なぜか祖父は母にだいぶきつく接していたようで、母から聞く話聞く話全て幼少期からの恨みつらみの話ばかりでした(-_-;)
妹と比べてかわいくないだとかはしょっちゅう言われていたらしいし…
祖母もそれを特に止める風でもなかったよう。

私から見ても祖父はだいぶ怖くて厳しい人だったので、あまり近寄らないようにしてました。ちょっと新聞をまたいだりしたら怒られてたし、子供の頃はもちろん大人になっても話をすることはほぼありませんでした。

祖父は個人で金融会社(いわゆるお金貸し)をやっていまして、私が学生の頃にはすでに、知り合いで以前お付き合いがあった人にだけお願いされてお金を貸している様子でした。社員さんがいるわけでもなく祖母と2人でやってました。私は、こういう仕事はお金になるんだなー?くらいに思ってました。当時は玄関の外に「有限会社〇〇」というブロンズ製みたいな看板がありました。

母が離婚した時、私は大学生で、祖父母の実家に戻り、私も一緒に住んでいたことがありまして。
母が戻ってくるということになると、現在の家を建て替えるのではなく、庭だったところに1軒どーーんと2階建てのおうちが別に建てられました。
実家はそもそもすでにだいぶ古くなっていたので祖父母も新しい家の方良いようでした。
1階が祖父母、2階が私と母の家になりました。
旧館はほぼ物置として、何かを取りに行くときにだけ出入りしてました。
その頃の祖母はいつも株をチェックしており、銀行や郵便局の人はしょっちゅう自宅に来ており、あれこれ契約してる風だったので、学生だった私は、窓口に行かないでもお年寄りの所には来てくれるものなのねとか思ってましたwただの大口顧客なだけですね😓

祖母は本当にさっぱりした人で、お料理も裁縫も上手。特に編み物はよくしていました。農作物を育てるのも上手。
裏庭の方にも小さな畑があり色んなものを作ってましたし、時期になるとせっせともちきびトウモロコシを育てたり、ミカンや無花果、檸檬、サクランボなど多種多様な樹が植わっており、離れて暮らしていた頃はよく宅配便で収穫物を送ってくれておりました。私にとっては普通に和服を着た昭和のおばあちゃん。
祖母のさっぱり具合は本当にすごく、厳しい祖父とも上手に付き合って色々とこなしていたので、今思うとやはりすごい人だったなと。
さっぱりとしているのは親子関係もそんな感じで娘たちにべったりなんてことも皆無なようでした。
なので母からは祖母が作ってくれるお弁当が全部茶色で悲しかった話とか聞いていましたが、そういう事も祖母は全く気にしない。(そういう母もおしゃれなかわいいお弁当なんか持たせてくれたことないけれど?)

祖父のおうちの台所はものすごく広かった。台所だけで十数畳くらいあるようなひとつの部屋でした。
応接間は吹き抜けで、柱には亀のはく製があり、社長室のようなでっかいソファーとテーブルがあり、しょんべん小僧がついた室内のタイル張りの水槽もありました。どんだけーwまた別の和室の応接間は室内から白黒の大き目の玉砂利が敷き詰めてあるところに階段がついており同じ1階なんだけど中二階みたいになってて、お正月にはそこで親戚が集まり、料理を頂いたりしてました。

あまり両親の愛情を感じるという状態で育ったわけではなかった様子の母はその後自宅を出て自立しようと、寮のある看護学校を選んだわけですね。
学校のお金とかもいらないところに行ったようでしたが、祖父には家にお金がないと思われる!みっともない!!看護師なんか!といった態度をとられていたようでした。召使いくらいに思ってたんでしょうかね…
この話は私にも降りかかってきたことがありまして、母が離婚した時、片親だし大学で奨学金を半額免除でも貰えたらいいかもなーと話していたら、祖父から、お金は出す!そんなみっともないことするな!と言われたことがありました。
奨学金はみっともないことではないと思うよ~😓

どんな経緯だったのかわかりませんが母が看護師としてしばし働いた頃、どこからか父とのお見合いの話が来たようで。今思えばそういう話も詳しくは聞いたこともないし、全然知らないという…
貧乏ホテルマン父とお金持ち母はそうやって出会ったのでした。
なぜ結婚しようと思ったのかについては、当時は楽しそうな人だったしいいかなと思ったのよ、だそうです。母見る目なし!(笑)

祖母の影響もあるのかはわかりませんが、母は料理の他、裁縫、お茶、絵画、生け花等々も上手でギターもちょっとだけ弾けて、クラシックやシャンソンなども大好きでした。いわゆる文科系お嬢様。歌っているのはあまり聞いたことなかったですが。
洋裁はとても得意で、自分の洋服、私たちの服も全て手作りなほど。


母の手作り。こんな風におそろいの洋服はいっぱいありました。
とにかく何でも作る。一番ちびっこが私。

運動はからっきしだめで、自転車にも乗れませんでした。姉と私で夏休みの夜に特訓したんですが結局無理でした💦

いくらお金があっても、小さい頃に愛情を感じられていないのはその後の人生には大きく影響するものだなぁと、母を見ていていつも思うことです。

今施設で過ごしている母は、以前よりかなり穏やかで、会えば必ず何かの、誰かの悪口を言っていた母でしたが、それも一切なく、ニコニコさんとなっており、なんのストレスもなく?楽しく人生を送っているのかもしれないなと。認知症のおかげ?で嫌な記憶もやっと忘れることが出来たのかもしれません。

今は色々振り返って、認知症の引き金になる生き方って何かあるのかな?と思っているのですが、やはりどちらかというと専業主婦引きこもり系で周りと一緒になって何かを楽しむとか、はしゃぐなんてのは見たことなかったので、社会的活動が極端に少なかったのと、あとはものすごい不眠症だったので睡眠不足は引き金になったのかもしれませんね…

意地を張って?なのかは分かりませんが、人嫌いかと思うくらい、いつも一人になりたがって、人を(娘でさえも)遠ざけている感じでしたが、今は周りに沢山の人がいて24時間見守ってくれている環境を整えることができました。
そして今、母の落ち着いた様子を見ていると、むしろこっちの方が本当は望んでいた事なのじゃないのか?と。
両親にあたたかくは育てられなかったかもしれないけれど、上手に人と関わることが出来なかった分、最後に色々と取り戻してくれてるかな?と、都合よく考えている娘です。

(母のマンションになかなか行けてないので色んな写真は追々追加出来たらなと思います)

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