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萩尾望都と手塚治虫文化賞

『残酷な神が支配する』は1997年の第一回手塚治虫文化賞のマンガ優秀賞を受賞していますが、この時のマンガ大賞はなんと『ドラえもん』なんです

『ドラえもん』ですよ?20年以上も前とはいえ、とっくにレジェンド扱いされてたマンガです、そんなものに大賞を与えるなんて何の意味があるのか?
それで、『ドラえもん』の価値が一ミリでも上がるとも思えないし、かえって失礼なんじゃないか?わざわざ新しく手塚治虫文化賞なんて作って第一回の大賞がそれでいいのか?とも思ってしまうのですが、藤子F氏がその前年に亡くなっていることが理由だったようです

ただ、第二回手塚治虫文化賞ではその年に亡くなった石ノ森章太郎氏は特別賞を受賞しています。だったら第一回の『ドラえもん』も特別賞で良かったのではないか?実際そういった声もあったようですが、なぜか『ドラえもん』が大賞を受賞しています

で、結論から言うと、私はこれは『残酷な神が支配する』をどうしても大賞にしたくなかった人が一定数いた結果なのではないかと思うのです。
手塚治虫文化賞は一次投票と二次投票に分かれていて、一次投票の時点で、『ドラえもん』が首位、二位が『ドラゴンヘッド』、三位が『残酷な神が支配する』だったようです。どの作品にどの選考委員が何点入れたかもすべて公表されていて、基本、選考委員は一つの作品に5点まで入れることができ、複数の作品に点数を入れることもできるみたいです

だから選考委員の一人である荒俣宏氏は二次投票まで残った6作品すべてに点を入れています。『ドラゴンヘッド』に4点、『残酷な神が支配する』に3点という感じです。詳しくは検索すると出てきますからご覧になってください、大抵の選考委員は複数の作品に投票してます。二次投票では『ドラえもん』に入れた選考委員は17名、二位の『残酷な神が支配する』は15名、三位の『ドラゴンヘッド』は17名でした

ここで、一次投票から『ドラえもん』に入れていた大月、呉、高橋、夢枕、石上の5氏は置いておいて、二次投票で新たに『ドラえもん』に入れた選考委員のうち、『残酷な神が支配する』に投票しなかったのは、印口氏と里中満智子氏の二人です(まあ、この二人は『ドラゴンヘッド』にも入れてないのですが)。そのうち印口氏は『ドラえもん』について「本来一番高いポイントをいれたい作品ですが、賞は生きておられるときに差し上げたかった、ということで」一次投票には得点を入れなかったようですが、なぜか二次投票には3点入れてます。そして、里中満智子氏は二次投票では『ドラえもん』だけに5点を入れてます、仮に、里中氏が『ドラえもん』ではなく、『残酷な神が支配する』に5点を入れていたら、大賞は『残酷な神が支配する』となっていました

つまり、里中氏の強い意思が『ドラえもん』の大賞受賞を決めたと言ってもいいのではないでしょうか

で、里中満智子さんって一応萩尾さんの知人?友人?なんですよね、『萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母』(河出書房新社)というムック本にも寄稿していました。第一回手塚治虫文化賞の時点では友人ではなかったのかな?よくわかりませんが、投票した作品名と得点まで公表されちゃうような賞ですごい度胸だと思いました

ここからは私の想像なのですが、里中さんは、中央公論の「マンガ日本の古典シリーズ」の作画を担当している一人で、『心中天網島』を描かれてるんですよ。だから、同シリーズの『吾妻鏡』の発売前年に、萩尾さんが同じ鎌倉時代を扱った『あぶない壇ノ浦』を描いたこと、萩尾さんが同シリーズの『和泉式部日記』を描くことをドタキャンしたこと、その経緯なども知っていたんじゃないでしょうか?
私は大泉本に出てくる『あぶない壇ノ浦』や『吾妻鏡』について会話した男性編集者とは中央公論社の編集者だと想像しています。萩尾さんが『あぶない壇ノ浦』を『吾妻鏡』発売の前年に描いたことは、中央公論への背信行為と言ってもいいのではと思います。この会話がきっかけで萩尾さんは『和泉式部日記』を描くのをやめたのではないかと妄想しているのですが、理由はともかく、ドタキャンされたことは中央公論にとって大迷惑な話であり、同シリーズの『心中天網島』を受け持っていた里中さんも同情あるいは憤慨していたということは十分考えられますし、竹宮さんの『吾妻鏡』に対抗するために『あぶない壇ノ浦』を描いたと思われていたなら、『残酷な神が支配する』についても『風と木の詩』へのアンチテーゼだということはわかっていたのではないでしょうか

もちろん、それ以前の問題として『残酷な神が支配する』は本当にそれほど優れたマンガなのか?という疑問があるので、里中さんがこの作品を評価しなかったのは私としては当然だと思うのですが

奇しくも手塚治虫文化賞が始まった1997年には、文化庁メディア芸術祭マンガ部門の漫画賞も始まった年で、最初の大賞はなんと中央公論社の「マンガ日本の古典」(22名の漫画家)に送られています。この時の審査員にも里中満智子さんが加わっていて、しかも主査ということになっています
こちらのほうは、自分が22名の一人とは言え、堂々と凄い仕事であったと誇りを持っていたのでしょうか、「マンガ日本の古典」シリーズへの思い入れの深さが伺えますね

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