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(オールド)『別冊マーガレット』によせて

前回の記事「忘却の『週刊少女コミック』」に続き、「わたしは一体いつから少女まんがに親しんできたのだろうか」シリーズ、第2弾。月刊『別冊マーガレット』(集英社)である。(公式サイトウィキペディアわたしのマーガレット展まとめ

1997年から少女まんが専門の私設図書館「少女まんが館」をはじめて、全国の少女まんがファンから多くの寄贈書をいただいた(深く深く感謝しております)。

その中で、赤地にピンクの文字、中央に金髪のかわいい女の子(リアルなモデルさん)、まわりに掲載作品のカットとタイトル&作家名が描かれた表紙の『別冊マーガレット』(略称『別マ』)を受け取ったとき……胸が熱くなった。

懐かしい、あまりに懐かしい。好きだった。ほんとうに、好きだった『別マ』! 中学、高校、大学、と毎月13日の発売日を心待ちにし、速攻で買って、むさぼるようにして読み、その後、来月号が発売されるまでの1ヶ月間、何度も読み返すという日々。

なのに、そんなに好きだった『別マ』をはじめ、少女まんが雑誌を1980年代の20代に、すべて捨ててしまった。その反省から1990年代半ばに「少女まんが館」構想が生まれて……と、それは、今回は横に置いておいて……。

とくに、川崎ひろこ先生の『時の彼方に』掲載の『別マ』1975年1月号、2月号を寄贈いただき、手にしたときは、手が震えました

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『時の彼方に』は、単行本未収録。もはや、雑誌でしか読むことが出来ない。記憶もそぞろだけれど、心に刺さっていたその作品を再び目にして、どれほど、幸せだったことか。

雑誌は、不思議。当時の記憶が鮮明に蘇る!!

『時の彼方に』は、10年に1歳しか年をとらない女性のお話。当時の私は、13歳と5ヶ月の中学1年生。ちょうど『ポーの一族』にハマり始めた頃。年をとらない、という設定に、強烈に惹かれたのです。

そして、川崎ひろこ先生にお会いしたときのことは、拙書『あこがれの、少女まんが家に会いにいく。』(けやき出版、2014年)に書かせていただきました。

1971年春 『別マ』表紙は金地・赤から赤地・ピンクへ

今回のテーマは、いつから『別マ』を読んでいたのだろうか? 買ってきたのだろうか? ということです。13歳5ヶ月、1975年1月には、心の糧だったということが判明したわけですが。

赤地にピンクの文字で「マーガレット」と描かれた表紙を見ると、懐かしさで体が震えるので、調べてみると……。

『別マ』の表紙は、1971年3月号までは、金地に赤い文字。1971年4月号からが赤地にピンクの文字のデザインに変わっています。

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ということは、1971年4月号以降に、わたしは『別マ』を読みはじめている。でも、この4月号の作品群は記憶にありません。

『別マ』=美内すずえ、和田慎二、という刷り込みが、わたしの中でございまして、1971年4月号以降の『別マ』掲載、美内すずえ先生作品を読み返してみました。

1971年5月号『黄色い海賊船』……記憶なし。
1971年6月号『ひばり鳴く朝』……記憶なし。けれど、アラ還の今読んでも、心に刺さるお話。
1971年7月号『シャーロック・ホームズひ孫の冒険』……なんとなく読んだような気も……。
1971年9月号・10月号『13月の悲劇』……たぶん、リアルタイムで読んだと思われる。あの校長の息子さんの顔のシーンを強烈に覚えているので……。修道院、こわい……と、すり込まれたような……。13……不吉な数字……。

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ということは、たぶん1971年9月号からは読んでいる。買っているということになる。なんと、和田慎二先生のデビュー作『パパ!』掲載号でもある。1971年8月13日発売。わたしは10歳と1ヶ月。小学4年生の夏休み。『週刊少女コミック』の表紙はすっかり忘却しているのに、『別冊マーガレット』はしっかり覚えている。なぜかはわからない。

わからないけれど、「金髪の女の子は、とってもかわいい」という刷り込みを、『別マ』から強烈に受け取ってる気がする……。そんなふうになりたいな、みたいなふわふわした気持ちが小学生の頃のわたしにあったような気がする。

また、わたしは、木内千鶴子と巴里夫両先生作品が、『別マ』の中で、なにか異質だな、と感じていた。巴里夫先生作品は、1972年9月号の『あしたのミチは』が最後。わたしが小学5年生(11歳)のときだ。小4から『別マ』を愛読していなければ、そんな記憶は残らないだろう。

ということは、どうやら、わたしは、小学4年生の夏休みあたりから『別マ』の愛読者だったといえそうだ。小学生の頃に読んでいたという自覚はまるでないのだけれど。掲載作品と記憶をすりあわせると、そうなる。

わたしの(あるいは人間の?)10歳前後の記憶がいかに曖昧か、いかに「懐かしい」か。そんなことを、『別マ』探索の旅で、感じました。

10歳 小4の記憶

少女まんがに没頭し始めた頃の、わたしのリアルな生活の記憶も記しておこう。

1971年8月、小4の夏。わたしの小学校の担任の先生の娘さんが熱射病で5歳で急死。学級委員だった私は、もうひとりの男の子の学級委員とふたりで、親に連れられて、先生の家で行なわれたお葬式に行った。

小さな二間の平屋の貸し家。その内部を全開して葬儀の祭壇が置かれていた。柩のそばに正座して、号泣する先生の姿……。男泣き……。忘れられない。また、忘れてはならない、と思った。

1971年11月、家から1キロ足らずのところにある、わたしの通う小学校が全焼。日曜深夜、月曜未明。原因は不明。たぶん、消防車の音で目覚めたのか、午前4時頃、家のそばから母や兄と、暗やみの中、大きな赤い火だるまを眺める。ああ、燃えてるのか、わたしの小学校が……。

小学校は木造のロの字型の2階建て。渡り廊下などがあり、古くて趣がある校舎で、わたしはとても好きだった。図工の時間に校舎の絵を描いた。そしたら、その絵がなにか県レベルの大会で賞をとって、火事のあった日、月曜日の朝会で、つまり全校生徒の前で、わたしに賞状が渡されてる予定になっている、と先生から聞いていた。わたしはちょっと楽しみにしていた。なのに……朝会で表彰されるなんてこと、初めてなのに、それも叶わず、わたしの絵も、賞状も……燃えているの? そう思いながら、大きな大きな火だるまを見ていた。

また、小4の頃、わたしは図書係でもあった。教室の後ろのロッカーの上に「学級文庫」をつくった。家にある児童書を持ってきて並べ、また、クラスメートにも協力してもらい本を増やして、貸出票などをつくって、とても楽しかった。本が好きで、小学校の図書館の貸出カードが3枚目に突入していた。図書館でなにを借りていたのか、いまいち覚えていないのだけれど。

うーん……今とあんまし、やってることが変わらない気がしてきた。

1970年代、十代のわたしは『別マ』ッ子だった

1970年代半ばの『別マ』表紙には「小学生からOLまでみんな読んでる!」というコピーがあった。まさにわたしは1971年の10歳のとき、小学生で『別マ』愛読者となり、中学・高校・大学と心の糧。『いつもポケットにショパン』が終わった1981年7月号、大学2年生の、ちょうど20歳になるときまで続いた。

はぁ〜、ずっといまいち謎だった「わたしはいつから『別マ』を読んでいるのだろう」ということが判明して、胸のつかえがおりました。

わたしは、1970年代『別マ』ッ子。

『別冊マーガレット』はウィキペディアさんによると、1980年代前半は公称180万部。また、『別マ』の名物編集長の著書『わたしの少女マンガ史 別マから花ゆめ、LaLaへ』(小長井信昌、西田書店、2011年)によると、1970年代、『別マ』は100万部を軽く越えていたそうである。回読もされるので、読者はさらに多かったと思う(少なくとも、我が家では、兄と母がこっそり読んでいたらしい……)。読者ウン百万人だったのだ。現在50代前後に、大きな影響を与えていると思うし、テレビ番組のように、話題にもできると思う。すごい媒体だったと思う。もろもろに感謝いたします。


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