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母と『ポーの一族』

少女まんが専門の私設図書館『少女まんが館』を創設してから、今年で23年目。雑誌や新聞、テレビなどにご紹介していただくことが何度もあった(たいへんたいへん感謝しております)。

そして、そのようなマスコミのスタッフの方々から、必ず聞かれることが、
「一番好きな、おすすめの作品は?」という質問。

うなるほど考えて、
萩尾望都先生の『ポーの一族』です」と答えてきた。

好きな作品、作家さんがたくさんいて、順番などつけられないのだけれど、どうしてもというなら、決めなくてはならない、という苦渋の決断だった。

だが、あまり強く言い張れない。なぜかというと、『ポーの一族』を、わたしはいつどこで最初に見たのか、雑誌や単行本をどこで買ったのか、という記憶が欠落しているのである。

そのことに気がついたのは、ほんの数年前。『少女まんがは吸血鬼でできている 古典バンパイア・コミックガイド』(方丈社、2019年1月)の原稿を書いているときだった。ふと、あれっ、なぜ、わたしは『ポーの一族』を読むことができたのだろうか? と。


『ポーの一族』の欠落した思い出

前述の著書にも書いたが、13歳から15歳の中学生の頃(1974~1976年)、毎晩毎晩、わたしはフラワーコミックス『ポーの一族』を読んでいた。あり得ないとはわかっていても、窓を開けて、エドガーとアランが迎えに来てくれることを夢みていた。もう、心をわくわくして窓を開けて寝ていた。冷たい風が吹く日であっても!

萩尾先生に、便せんうん十枚びっしりのファンレターを書いたのも、覚えている。『リデル森の中』の見開き2ページを、ケント紙にまるまる真似したのも、覚えている。ばらの香りのシャンプーをどこからか手に入れて、夢見心地になったことも、覚えている。

1977年3月、高校受験が終わった15歳の春休み。将来は少女まんが家になろうと思って、いざ、絵を描いてみたら、同一人物の顔が描けない、ストーリーやキャラクターも、まるで思いつかない、ということに気がついて、ほぼ瞬殺で諦めた。人生の挫折のひとつだったりする。それほど、わたしにとって、『ポーの一族』の思い出は深い。

なのに、なのにである。『ポーの一族』との最初の出会いは、覚えていない! コミックスや雑誌をどこでいつ買ったのか、その記憶がないのだ。


1974年、12歳のわたしの生活環境

フラワーコミックス『ポーの一族』第1巻が発売されたのは、1974年5月末。7月生まれのわたしは、まだ12歳の中学1年生になったばかりの頃。

フラワーコミックス第1段となる『ポーの一族』は、編集部の予想を裏切り、異例の初版3万部が発売3日で完売したという。少女まんがの世界では、画期的な出来事だった。『ベルサイユのばら』宝塚舞台化ブームとともに、少女まんがが少女たちの秘やかなる世界から、男性や大人たちへ、性別や世代を超えて拡がり、認知されるきっかけになった。

……なんてことを、当時12歳のわたしが知るはずもない。「少女」当人だったのだから。

しかも、わたしの生まれ育った家は、樫の木で覆われた深い山の中腹の一軒家、家業は農家である。少なくとも、鎌倉時代から続いている家という。三浦半島先端、田畑の広がる近郊農業地域だ。

秋には庭にドングリが山のように落ちてきた。母屋は瓦の2階屋だったけれど、藁葺き土壁の物置が3つあった。庭のはじっこには、木造のぼっとんトイレ小屋(もちろん和式)。裏には壊れかけた、かつての風呂場やかまど、封印された井戸、雨水を貯める太くて大きな土管のような容れ物などがあった。

山から枯れ木を拾ったり、老木を切って、父・母・兄・私で薪割りをした。五右衛門風呂を沸かすのは、一緒に暮らしていた父方祖母の役目だった。けれど、湯がぬるい場合は、はだかで外に出て、自分で薪を足したり、新聞紙と枯れた竹から火をおこしたりしていた。

北側の山際からわき水が流れ、東斜面の谷間に小さな沼をつくっていた。南側は竹林で、家の下には、空き地やら畑やら溝やら、よくわからない緑地におおわれていた。すぐ近く、谷間の奥にあたる場所に「せき」とみなが呼ぶため池がひとつ。

カラーテレビはあったけれど、チャンネル権は父にあり、ニュースか野球かNHKばかりだった。小さな白黒テレビも祖母の部屋にあったけれど、自由に出入りできなかった。ラジオを聞く習慣もなかった。農協の細長い黒い有線電話と、いわゆる黒電話があった。けれど、子どもは使ってはいけなかった。

食事は質素だった。ごはん、みそしる、つけもの、プラスα。米も野菜もうちの田畑でつくっていた。海まで2キロだったので、父がときおり磯魚を釣ってきて、母が煮魚にして、みなで夕飯のおかずとして食べたりした。

学校のない日は食事の準備、後片づけ、野菜採り、洗濯、家そうじ、庭そうじ、薪割りなど家の手伝いで、ほぼ一日が終わることもしばしば……。

いま思い出すと、いつの時代のことや? と感じるが、たかだが、50年足らず前。アニメ『日本昔ばなし』を地で行くような生活環境の中、コミックス『ポーの一族』第1巻がわたしの目の前に現れた。18世紀イギリス貴族の世界が……。

そして、わたしはその世界に憧れ、どっぷりハマっていった。


本好き母の寝床で見つけた!?

いま、この文章を書いていて、思い出した光景がある。母の寝床である。

母は本が好きだった。農家の嫁として忙しい毎日を送る中、寝る前に本を読むことを楽しみにしていた。枕元には、なにかしらの本が、いつも置かれていた。

わたしはすでに2階の6畳和室を自分の部屋として使っていた。ひとりで寝ていたが、夜、ふと怖くなると、ときどき父母が寝ている1階の和室へかけ降りていって、父と母の間にはさまって寝ていた……ような気がする。

そんなときに、見つけたのだ。たぶん。母の枕元にあった『ポーの一族』を。暗い寝室の中、スタンドの光に照らされて、畳の上でぼぉっと光る『ポーの一族』第1巻の表紙……その光景が、なんとなく蘇ってきた。

「おかあさん、これ、読んでいい?」
「いいよ、気に入ったのなら、あげるよ」と、母と娘の間で会話があったのか、なかったのか、もちろん、記憶にないが、たぶん、あったのだろう。

わたしは、以後、コミックス『ポーの一族』をもともと自分のものだと思い込んで、約半世紀を過ごしてきたのである。

なんてこった! (おかあさん、ごめんよ、すっかり忘れちゃっていて)


母が買ったものだった!

コミックス『ポーの一族』第1巻(1974年6月発行、書店発売は5月末)は母が買ったもので、もともと母のものだったのだ。

そりゃ、そうだ。

バス停まで田畑の中の道を歩くこと15分。バス停そばに「とうぶつや」という雑貨屋さんがあって、雑誌を売ってはいたけれど、本やコミックスはもちろん置いていなかった。むかいの「農協・食料品売り場」にも、すみっこに本棚があって、学年誌や雑誌を売っていたが、本は売っていない。

大きな本屋は、横須賀中央駅からほど近い上り坂の途中、平坂書房で、バスなら30分以上かかる。最寄りの三浦海岸駅までは、歩いて25分。横須賀中央駅まで電車で20分ほど、つまり家から小1時間もかかる。

1974年、12歳で中学生になったばかりのわたしが、ひとりで買いに行ける場所ではない。

母は、手塚治虫が好きで、家には『火の鳥』のムックが何冊もあった。当時の多くのPTAは「マンガを読むとバカになる」と、心底思っていたらしい。が、母は違った。本もマンガも大好きだったのだ。

なぜ、母がコミックス『ポーの一族』第1巻を買ったのか。

ここからは憶測だ。

うちは農家だったけれど、日本経済新聞、朝毎読のいずれかの新聞、神奈川新聞、スポーツ新聞と、新聞をいくつも購読していた。父は株と将棋とスポーツが好きだった。

1974年の初夏、フラワーコミックス『ポーの一族』が売れている、というようなことが新聞記事になったのだと思う。それを母が読み、興味を持った。当時の農村では珍しく、女性なのに車を運転することができた母。横須賀中央へ車でひとり遠出したおりに、平坂書房で、『ポーの一族』を買ったのだ。

반드시!(きっと、たぶん)

第2巻は、第1巻発売の1ヶ月後、第3巻は2ヶ月後で、わたしが13歳になるまでに出そろう。母は時間をやりくりして、買いに行った。それを、わたしがすぐさま自分のものにして、毎晩、コミックス『ポーの一族』3冊を読みふけっていた、ということだろう。

13歳、メリーベルと同じ年齢のときに、本好き母のおかげで、わたしは『ポーの一族』の世界へのめり込んでいった。


われ、中二病、発病す

1974年、萩尾先生は『トーマの心臓』を『週刊少女コミック』に連載していて、『ポーの一族』が新たに描かれることはなかった。(もちろん、わたしはフラワーコミックス『トーマの心臓』も愛読していたが、それに関してはまたのちほど……)

わたしが『ポーの一族』を“雑誌”で初めて読んだのは、1975年1月だと思う。『エヴァンズの遺書』後編のカラーページを鮮明に覚えているから。これで、やっと雑誌で『ポーの一族』を読むことができる、と大変うれしかった。自分の部屋の木製勉強机の上で、姿勢を正して読んだ気がする。

だから、わたしはコミックスから入って、途中から雑誌掲載のリアルタイム読者になったというパターンだ。

『エヴァンズの遺書』後編の初出誌は『別冊少女コミック』1975年2月号。『別コミ』は表示月号の1ヶ月前13日が発売日だから、1975年1月13日か、その数日後のことだと思われる。わたしが13歳、中学1年生の冬休み明けだ。

たぶん、てくてく15分、田舎道を歩いて「とうぶつや」か「農協・食料品売り場」の本棚へ行き、『別冊少女コミック』を見つけて、自分で買ったのだろう。まだ、初潮前のお子さまで、どうにも時間や空間認識が未熟だったようで(いまもか……)、覚えていないのが、悔しい。

1975年3月下旬、中1から中2の間の13歳の春休み、わたしは初潮を迎えた。それまで世界は世界のままでなんの疑問もなかったのに、「あれっ、わたしって、なに? なぜ、ここにいるの? なぜ、生きているの?」と、いわゆる「自我の目覚め」というものに襲われる。りっぱな中二病患者となった。

そして、1975年夏、わたしは14歳になった。エドガーとアランと同じ年齢!! このときの心の糧が『ポーの一族』だった。毎晩毎晩、聖書のように読んでいた。大人になりたくない、大人ってキタナイ!と真剣に思っていた。『別コミ』を買っていたのは確かだけれど、相変わらず、どこで買っていたのか、記憶がない。

記憶はないが、この年、『ポーの一族』の新作が次々と『別冊少女コミック』に発表される。『エヴァンズの遺書』に続き、『ペニーレイン』『リデル・森の中』『ランプトンは語る』『ピカデリー7時』『ホームズの帽子』『一週間』と、7作品も! (『週刊少女コミック』掲載の『はるかな国の花や小鳥』を加えれば、8作品!!)

つまり、わたしは14歳の頃に、『ポーの一族』シリーズ後半を初出誌で読むことができた、幸運な読者なのかもしれない。

1976年1月、コミックス『ポーの一族』第4巻が発売された。これまた、どこで買ったのか記憶がない。

だが、1975年4月に三崎口駅が開業し、そこから友達4人と電車に乗って横須賀中央へお出かけする、という冒険をしたことを覚えている。中2の頃だ。だから、もしかしたら、そのときに、平坂書房へ行き、自分で買ったのかもしれない。相変わらず、母が買ったものを横取りしていたかもしれないが。

1976年5月、『別冊少女コミック』6月号掲載の「エディス」で、『ポーの一族』シリーズは幕を閉じた(*注1)。「終わってしまった……キリアンは、キリアンは……一体どうなるのーーーっ??」衝撃で、わたしはベッドの上でしばし放心。心に穴があいたような……。

当時のわたしは14歳10ヶ月。中学3年生になりたてだった。15歳まであと2ヶ月に迫っていた。15歳になる前に、14歳のまま死んでしまおう、と思った。

エドガーやアランの年齢を超えてしまうのはいやだったからだ。両親もいやだし、自分が暮らすのこの生活環境もいやでいやで仕方がなかった。なにせ、中二病だからしかたがない(と、いまなら受け流せる)。エドガーやアランのように、ばらを追って生きていきたいと思った。さもなければ、死んじゃえ、と(*注2)。

けれど、自殺の仕方がわからなくて、なんとなく誕生日を過ぎてしまい、そのうち、なんとなく忘れてしまった。そんなことを思い詰めていた自分を。

はるかのちに「中二病」という言葉を聞いて、膝を打つとはまさにこのこと。

苦い思い出と共に、『ポーの一族』はある。


母は38歳で『ポーの一族』ファンになった

ずっと、わたしは母のことが大好きで、12歳まで良好な関係で過ごしてきた。しっかりもので頼もしい母だった。忘れん坊のわたしは、提出物や宿題、上履き、給食のテーブルクロスやかっぽう着など、学校への持ち物を数知れず忘れた。それを母は、数知れず学校まで届けてくれた。どこかに傘を置き忘れたことも、うっかり怪我したことも一度もない。賢くて、地域のリーダー格だった。

が、中2の頃から、わたしは母があまり好きではなくなった。以前のように、なんでもしゃべらなくなった。二十二歳のとき、母と大げんかをして、わたしは家出した。そのまま家に戻ることなく、母のあずかり知らぬ男と結婚し、彼の実家に居ついて、いまに至る。

わたしの花嫁姿を夢みていた両親にとって、まともな結婚式もしなかったわたしは、親不孝な娘だと思う。

とはいえ、わたしは四十路過ぎで女児をひとり出産。両親はことのほか喜んでくれた。孫の誕生により、冷え込んでいた親子関係は、良好な関係へシフトしていった。

今年の夏で母は85歳。つまり、38歳のときに『ポーの一族』に出会った。そして、ファンになった。農村の、とある嫁が、である。

数年前、わたしは母に質問してみた。「『ポーの一族』をどうして知ったの?」と。が……「よく覚えていない」という。

10年ほど前に父が他界してからしばらく後、少しずつ認知症が進行している母。身体は元気だけれど、記憶の混濁がよくある……。母が『ポーの一族』をどのように知り、どこでコミックス『ポーの一族』第1巻を買ったのか、もはや、確かめることができない……。

以前のしっかりものの厳しい顔が影を潜め、人格が変わって、いつもほがらかな顔になった母は、
「『ポーの一族』は好きだったよ。ハマってよく読んでいたよ」と、教えてくれた。

そうだったのか、おかあちゃん! ハマっていたとは知らなかったよ!!

「『ポーの一族』は性別、世代を越えて、少女まんがが認知されていくきっかけになった」と、わたしは思っていたが、その生き証人が、まさに身近に存在していたのだ。(実は、兄もこっそり読んでいて、好きだったらしい。五十路過ぎに知って、驚いた)

中学生の頃、わたしは母(や家族)とまともに話すことがなかったせいか、ずっと知らずにいたのだった。

なんてこった!


2019年、母と「ポーの一族展」へ

昨年2019年夏、銀座松屋で「デビュー50周年記念 萩尾望都 ポーの一族展」が開催された。わたしは母を誘い、一緒に二人で見に行った。せめてもの親孝行と……。

実家の最寄り駅は京浜急行の三崎口駅。東銀座まで、乗り換えなしの一本で到着できる。兄が三崎口駅まで送り、わたしが東銀座駅ホームまで迎えに行くという方式で、ひとり外出のおぼつかない母を連れ出した。

実は、わたしはその数日前、同世代の『ポーの一族』ファンと、この展覧会を見ていた。フランス窓から現れる等身大のエドガー……風(の音)が吹きわたる、すんばらしい展覧会で、心底楽しかった。修正に修正を重ねた原画から、えもしれぬエネジイが放たれていた。原画のパワーたるや!

興奮して、いろいろなことをポーファンと話した。が、実母ともう一度この展覧会を見るということを、彼女たちになぜか言えなかった。のどに骨がつかえたような、そんな気がして、言えなかったのだ。

わたしの人生を左右した『ポーの一族』との出会いは、母のおかげだった。それを素直に認めることができなかったからだと、いまは思う。

若い頃、母を疎んじ(また、田舎を疎んじ)家出した自分が、どれほど浅はかだったのかを認めることと同じだから、だとも思う。

どれほど母にひどいしうちをしたか、想像を絶する。娘から拒絶される。母の悲しみ、寂しさはいかばかりであったか。認知症発症のひとつのきっかけになっているのでは、と感じるときもあり、心が痛い。

母と展覧会を見終わったあと、感想を聞いてみた。

「……すべてが美しい」と、おだやかな顔で母は言った。

たしかに。

わたしにとって、この美しい世界への扉を最初に開いてくれたのが、まぎれもなく、あなたです、おかあさん。家出娘を赦し、温かく、いまも接してくれて、どうもありがとう。

そして、『ポーの一族』を生み出した萩尾望都先生、「吸血鬼少女まんが」「ポーの一族展」に連なる多くの出来事や人々に、深く深く御礼申し上げます。


(*注1)『ポーの一族』シリーズは、2016年初夏に再開する。「エディス」終了からちょうど40年ぶり、新作「春の夢」が『月刊フラワーズ』7月号で発表された。掲載誌は売り切れ店が続出し、異例の重版になった。ポーは異例づくし。
(*注2)これは、当時ベストセラーになっていた高野悦子著『二十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』の影響が多大。『二十歳の原点』の続編で、二十歳で自殺した立命館大学に通う女子大学生の日記をまとめた本。この3冊は『ポーの一族』とともに14歳のわたしの愛読書だった。「独りであること、未熟であること、それが私の二十歳の原点である」というこの本の一節は、14歳のわたしの心に刻まれた。「独りであること、未熟であること、それがわたしの14歳の原点」だったし、いまも継続している気がする……。

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