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激動介護~人生半分引きこもり~1


 令和二年、二月の朝。

                             

「救急車、呼んでくれる……」


 母は辛そうにいってダウンジャケットのまま台所の床に横たわった。


 小一時間前に自転車でパートに出かけていたが、途中、ほどけた靴ひもがペダルに絡まり転倒したという。

 母は腰を強打したが、道端に自転車を置いていくわけにはいかないと休み休み押して帰ってきた。


 私は大慌てで救急車を呼び、救急隊員に母をまかせた。

体調を崩していたし、母の帰宅前にデイケアに出かけた父が昼にもどってくる。

「あの様子だとしばらく入院すると思う」

 姉に電話したが、母は一時間ほどで救急病院からタクシーでもどった。
 激痛のある腰はレントゲンでも異常は見当たらず、痛み止めを三日分もらってきた。

「いたい~」

 布団で唸る母をみるとあまり効かないようだ。


 私は微熱でだるかった。

 よくあることで父は足腰が悪い老人だ。

 一足早く、わが家は緊急事態に入ったが、他県に暮らす姉が泊まりで世話をしてくれた。

 さらに、私一人で両親の世話は大変だろうと、母が回復するまで父を預かると申しでてくれた。
 父も承知してくれて引っ越しは四日後となった。


 四日後、義兄が車でやってきた。


 まだ本調子でない私はアパートの廊下で見送ることにした。

「お前も買い物やなんかは急いでして、とにかく気をつけてちょうだいよ」

 父は車椅子から私にいった。

 その車椅子は今月、介護保険で借りたばかりだった。

 父は短い距離なら二本杖でよろよろ歩けたが、段差が厳しくなっていた。

 私は父に腰をかがめた。

「お父さんも気をつけてね。当分デイケアはないけど家の中で歩いてね」

「わかったよ」

 父はうなずいた。

(お父さん絶対歩かないわ)

 私は思いつつ父のライトダウンのタバコ穴に後悔した。

 青いライトダウンに防寒パンツ、毛糸の帽子が父の冬の定番衣装だ。

 たっぷりしたダウンコートもあるのだが、重いし動きにくいと着ないので何年か前に私が駅ビルで買ってきた。

『軽いねえ』

 父は喜び真冬も重ね着で愛用した。
 それで鮮やかな青はくすんでいて胸にはタバコ穴が開いていた。

 いや買い替えようとは思っていたが、父はパーカーもフリースも焦がしていたし、売り場のライトダウンは渋い色合いが多かった。

 老人は綺麗色を着たほうがいいと考える私は、そのうち買おうとテープで穴を塞ぎ、いま気まずい思いをしていた。

「お母さんを頼んだよ。お前とお母さんが無事なら、お父さんはどうでもいいんだから」

 気にした風もなく父は何度もいった。

「わかった。お父さんも元気でいてよ」


 私は素顔でうなずいて車椅子と姉の後ろ姿を見送った。



 わが家は両親、私の三人家族だ。


 家は3ⅮKのアパート。

 私は独身無職の四七歳。

 人生の半分くらいを引きこもりとして生きてきた。


 引きこもりのきっかけは、高卒で就職した会社で職場の人たちから、ある日突然、無視されたことだ。

 真夏の繫盛期の頃で、私は忙しさに愚痴ばかりで彼らをうんざりさせたのは間違いない。


 突然のしっぺ返しに、私は緊張すると大汗をかいて腹がごろごろするようになった。


 家にいるときはなんでもないが職場にゆくとおかしくなり、やがて出勤中にもそうなった。

 途中下車してトイレにかけこむと、もうあの職場にいく気は失せていて、ぼんやり満員電車を見送った。

 ホームに人気がなくなると公衆電話で休みの連絡を入れ、その年の十二月に退職した。


 そうしたことは誰にも話せなかった。

 三十年前はメンタルヘルスや過敏性腸症候群、自律神経失調症は日陰の病気で、スマホもインターネットもなかったし、いじめもお腹も恥ずかしかった。


 私は冬中だらけて春になると短時間のバイトを始めたが、長く座っていられず、すぐ辞めた。

 それ以降、短期の仕事と長い無職のくりかえしで、時々さまざまな病院や民間療法にチャレンジしては失望した。

〈人生の半分〉は体感だが、同級生が経験を重ねるあいだ私はひたすら家にいた。

 もう他人と外が恐ろしくなっていて、ひどいときは玄関を一歩も出られなかった。


 調子のいいときは家族とデパートでランチができた。

 でも電車やバスの移動は大変で図書館もいけなくなり、映画はありえず美容院は卒業した。


 最後のお勤めは三十代前半にした電話会社の派遣だ。

 最初はパートタイムで、一年ほどでフルタイムになったが体力が続かず辞めた。人も外も恐ろしく、もう人生終わったと絶望したが穴はさらに深かった。


 六年前、突然、耳鳴りがはじまった。


 耳の中でベルやテレビの砂嵐のような音が、ヘッドホンで聞く音楽より大きな音で鳴り響いていた。


 頭が締め付けられるように痛い。


 私はパニック状態で耳鼻科に出かけた。

 どういうわけか耳鳴りは外で動いていると小さくなり、他人には聞こえず検査で異常は見つかなかった。

 近所の内科にできることはなく、この上は専門医で脳の検査といわれるが、どこのナニ科へいくのかわからぬし電車の移動や長い待ち時間、高い検査費をつっこむ気力もなかった。


 途方に暮れて帰宅すると耳鳴りは激しくなった。

 頭痛と音の圧迫感で呼吸が浅くなる。

 動いていると多少ましだが頭が痛くてままならず、しかし横になると音が際立ち、また苦しい。

(でも悪い所はないんだし、明日になればよくなるかも)

 一縷の望みで夜を待つと耳鳴りは轟音になった。

 後に知人はこの症状を〈爆音症〉と呼び、うまいこというと感心したものだ。

 本当に戦闘機でも通りすぎたような音量で、なにか体も布団の中で振動していた。

 襖を隔てた居間では母が、玄関脇の部屋では父が寝ていて外も静かなのがわかるのに、私だけがとんでもない場所にいた。

 頭痛も強烈でズキンズキンと痛みの波がくるたびに体が勝手にこわばる。私は唾を飲みこみ母を起こさないように呻いた。

 やがて疲労で目蓋が落ちると、どこからかドカンという音がして心臓がはねあがる。眠るどころか休めもしなかった。

(なんで) 

 昨日までは、みじめでも息をするのは簡単だった。

 いまは生きているだけで精一杯。

 いったい自分のなにが悪くて、こんな目に合うのか。


 答えもなく夜は明け、耳鳴りはうるさい音楽ほどに、頭痛は針で刺されるぐらいになった。

 ぼろ雑巾のようだが食べたり風呂に入ったりはできて、それ以外のまともなことは無理だった。

『お父さん助けてよ』

 私ははじめて父にいった。

 かよわい老人はうろたえた。

 母はパートと家族でくたくたで、さらに私の分の家事が増えていた。


 わが家に私を助ける力はなく、私は消耗していった。

 はた目にはパジャマでごろごろする人で、中は音と頭痛が鳴り響いていた。

 昼は家族のまわす日常で多少気がまぎれたが、夜は苦痛から逃れるために布団の中でスマホを眺めた。

 疲労困憊で泣きぬれて明け方ようやく意識をなくす。

『はっ!』

 二、三時間後に覚醒し、同時にものすごい耳鳴りと頭痛に殴られる。

(いたいいだいいだい‼)

 まどろみもなにもあったものではなく、私は追い立てられるように起きて一日をはじめた。


 それは拷問だった。


 始終音と頭痛に苛まれ、最低限の睡眠でしのぐ責め苦だ。



『怖いとか痛いとかは嫌だけど、眠って起きないならいいよねー』

『知らないうちに死ぬならね』


 二十代の前半、母とこんな会話をした。

 家が大変なときで母娘で絶望していたが別に死にたい訳ではなく、『しんどいね』といい合ったのだ。


 あの頃が天国に思える。

 私はわずかな正気で屋上や川、ロープを恐れた。

 あと少しでなにもかも吹きとぶと知っていた。

 体はとても正直でしんどくなると楽になろうと『なにか』をする。

 頭痛で身をよじるとか意識をなくすとかで、体がキツイほど『なにか』も強烈になった。


 私の場所には死があった。


 まだ遠くて恐ろしさに後ずさりするが、この生活が続けば唯一の救いになるだろう。

 そうしたことを体で理解した私はすべもなく涙を流した。

(だれか……なんでもするから)

 法律の消える道筋も知ったが悪をそそのかす魔は現れなかった。



『散歩にいかない? 体を動かしたら眠れるかもしれないから』

 母がいった。

『いってらっしゃい』
『おかえり』

 こんなセリフでもなくなったら悲しむだろう。

『そうだね』


 私たちは散歩にでかけた。


 外に出ると耳鳴りは小さくなった。肉体や現実は遠くて悪い夢のなかにいるようだ。

 眠るには疲れるしかない。

 私は頭痛に泣きながら掃除機をかけて料理をした。内科で睡眠薬をもらい不眠に効きそうなことを片端からためした。


 大した効果はなかった。


(なんで私が)

 毎晩、布団に入ると〈なんで〉で一杯になった。

(なんでよ‼)

 やがて怒り、直後に頭痛で泣きが入る。

(もうだめだ。もういい。もう)

 あきらめて。

(死にたくない‼)

 底の底には生があった。



 私はずっと生きたかった。


 働いて家族をもちたかったし、それが大変だ、あるいは難しいと嘆いてみたかった。

 キラキラしたり、できないと悩むのは憧れで、〈普通〉の土俵はとてつもなく遠かった。そういう人生を地獄だと思っていたのに、肉体の苦痛に比べたら、もう全然ましなのだ。


(健康ってすごいわ)


 私は落ちるたびに絶対に要るものを確認した。

(眠りたい。静かに。痛みもなくて、安心して)

 恐怖や苦痛、不安に脅かされない生活。

(ちゃんと寝て、ちゃんと動いて)

 人並みに動ける体。


 それは健康と安全だ。


(それさえあれば)

 なんとかなる。



 私は眠ることに集中した。

 耳鳴りで難しかったが、そちらは耳鼻科と内科でだめなので出来そうなことをやったのだ。死ぬまで耳鳴りに苦しむ可能性は無視した。

 ものの今がとにかく苦しくて毎日毎晩泣いていた。

(なんで? なんでよ‼ もうだめだ。でも)

(死にたくない)

 私は毎日落ちて、またはじめた。やらないと耳鳴りに殺されると思っていたし、ただ耐えるのもつらすぎた。

 進むのもしんどくて、私はあらゆるものを恨み倒し朝になると前を向いた。恨みの道は引きこもりの間に滞在済みで、疲れたときの腰掛にはよかった。

〈自分を信じる〉

〈ひたすら努力〉

 などの前進概念は弱っていると鞭のように感じられ、背を向けるほうが安らいだ。ただし解決力は皆無で、馴染みすぎると負け感が増すので小回復すると腰を上げた。


 そうした日々で耳鳴りは〈うるさくてキツイ〉くらいになった。

 外出は散歩から買い物へ、やがてデパートのランチになった。



 すると汗とお腹問題が復活した。


 十八歳で壊れた体はそのままで耳鳴りと不眠も加わった。

 疲れやすくて頭も悪く、無理をすると寝込む。

 症状は微熱とだるさでせきや鼻水はなく食欲はあり、寝てれば治るがなけなしの体力も減った。

 耳鳴りがはじまった頃は月一で寝込み、長いこと風邪だと思っていたがネットで自律神経失調症に出会った。

 あるいはうつ病かもしれぬ。

 ネットによるとどちらもストレスで発症し症状が似ていた。

 十年くらい前の、家から出られず玄関でしゃがんで空を見ていたときは、うつの方だと思うのだが心療内科も失望していた。


『脳腫瘍なら弱ってゆくが元気になっているのでちがうのでは』

『正確な診断には専門医の診察と検査』


 かかりつけ医の言葉を死なないと意訳して耳鳴りも放っていた。

 損するのは自分だが過去の病院巡りをくりかえす気力はなく、働くのはもっとありえなかった。

 しかしランチに出るうち電車と人には慣れてきて、それまで避けていた、ご近所付き合いもできるようになった。

(体力がつけばなんとかなるかも)

 私はここ十年ではじめて希望のような気持ちをいだいた。


 それには眠ること。
 仕事はその後。


 としていたら、母は寝こみ父は引っ越した。


 疫病も流行りそう。

 生きるほど悪いことが起こっていた。


 それでも死ぬよりましなのだ。



 ニュースは港の客船でもちきりだった。


 いまこそ引きこもるべきなのに母の痛み止めはなくなった。

「こんなに痛いのに三日分しかくれない。整形病院にいく」

 母はいい、私たちはマスクのワイヤーを慎重に折り曲げタクシーに乗った。

 整形医院は、母が四十肩の治療で通い始めたばかりの整形外科で内科もあって混んでいた。


 母は父の歩行器を借りてきていて座面を下ろして座ったが、ものすごく痛そうだ。

「圧迫骨折ですね」

 長い待ち時間の後、医師はレントゲン写真を指さした。

(そうだと思った)

 寝てても痛くて呻くのだから、ただごとではないのだ。

 母はたずねる気力もないようで私が医師に聞いた。

「どれぐらいで治りますか?」

「一概にはいえませんね」


 大まかな目安もわからないまま母はコルセットを作り、週一回の注射をすることになった。


「コルセットの技師がくるのは火曜日です。注射は週に一回しか打てないので、今日打つとかならず木曜日になります」

 注射担当の看護師さんがいった。

 コルセットは初回に採寸して、次の週にできあがったものを調整する。

 つまり来週とその次は週二回の通院となる。私は看護師さんに頼んだ。

「注射を火曜日にできませんか?」

「そうですねー」

 看護師さんはできるとはいわず。

「もういいから」母にはにらまれた。

 母は医師にしたがうのが当たり前と思う人で、痛みで私のすることも気に障るようだ。


 家に帰ると母は疲れはてた様子で横になった。

 トイレ以外は寝たきりで、ただ寝ているのもつらいという。

 なにもできない私もつらい。


 ニュースは船を案じていた。


 ひたひたとなにかが迫りつつあった。


 私は買い物を週一回にして母にもすすめた。

「コルセットができるまで、あんまり動かない方がいいよ。注射は再来週の火曜日にしてもらえば?」

 母は拒否した。

 重ねて頼むと逆上した。

「注射はするの‼ ぐちぐちいうなら一人でいくわよ‼」

(わかる)

 つらいと人は怒るのだ。

 かっとして苦しみを蹴散らしているのだが、怒るほどの苦痛なので一瞬引くだけでまず飲まれる。

 しばらくすると母はいった。

「すっかり苦労掛けちゃって。ごめんね」

「苦労なら私が上だって。お母さんは権利があるんだから、堂々と寝ててよ」

 こんな会話を何度もした。


 苦労というが母に手はかからなかった。

 これまでは出勤する母に合わせて早起きだったが、いまは起床も家事も自分のペースでしていた。

「手をかけないでいいから」

 母はいい、私はその通りにしすぎて埃の玉ができたりした。

 変だった。

 忙しくないのに疲れていた。

 道行く人が素顔だと近づかなくとも腹が立った。


(ちょっとまずいかも)


 自覚はあったので楽しいことをした。

 私の楽しみは食べることで、鍋でご飯を炊いて塩むすびに凝ったり、バニラアイスを食べ比べた。


 しかしスーパーは混んでいてトイレットペーパーの棚が空っぽだ。

〈トイレットペーパーがなくなるみたい〉

 などというツイートが発端だというが、私も大いにショックを受けた。

(スマホ漬けなのに知らなかった。みんないつどこでデマに出会うの⁉)

 孤立する私をよそにスーパーの棚は続々と空になった。

(たいへんだ)

 世界は崩壊する。

 水と食料、備蓄を増やせ‼

 私は浮足立って保存食の棚に向かった。
 残り物は高級品か変わり種で精肉棚の寂しそうな和牛にわれにかえる。

(そうだよね)

 パンデミックでも人々は働いていて、いまのところは補給所が店から家に変わっただけだ。

(私がコロナになった場合を考えないと)

 私はようやく着地した。

 コロナになったら入院したい。
 できない場合、食事の支度が大変だ。

 買い置きはあるが具合の悪いときにインスタントは食べたくない。

 出前は油物が多そうだ。

 外出は厳禁で、ご近所に電話で頼むとしても手軽に買えるあっさりメニューはあるだろうか?


 私は市販のお弁当を思い浮かべた。

(最近、買ってないな)

 私の最近は三十年だ。

 母はできあいが苦手だし家族だと作ったほうが安いので、わが家は弁当を買わないのだ。

 私はノートパソコンでコンビニ弁当を検索した。

(チキン南蛮美味しそう。洋風ミックスもいいな)

 迷って幕の内弁当に決めた。

(でも具合の悪いときは嫌か)

 一周して考える。

(食事を冷凍してチンする)

 私は道を見つけた。

 でも。

(タッパーが足りない)


 百均にゆくと出会いがあった。


 タッパーの多くは蓋の溝で密封する。

 細い溝は洗うのも拭くのも手間だ。百均には段差で封じるタッパーがあった。


 段差タッパーの蓋は、縁が少し持ち上がっているだけで見るからに洗いやすそうだ。

「これすごくない‼」

 私は寝ている母に段差タッパーのすばらしさを訴えた。

鍋炊きご飯と豚汁を山ほど冷凍する。カレーやシチューもいいだろう。

「これで備蓄問題は解決だよ!」

 私は鼻高々で翌朝用の海苔弁も支度した。


 もう鍋炊きご飯は美味しすぎる。

 私は順調に体重を増やし、旬の情報にも出会った。


〈給食が中止で牛乳が余っている〉

 私はさっそくホームベーカリーでヨーグルトを作った。

 すぐ飽きた。

 そうした日々で母は食事時だけ起きあがるようになった。



「欲しいものがあったら買っていいから」


 二月も終わりにさしかかり母がいった。


「いまはないなあ」

「なにかあるでしょう? 服でも化粧品でも好きなものを買いなさい」


 三月で私は一つ年をとる。


 もう全然めでたくないが、毎年家族でケーキとご馳走を食べ、母になにかを買ってもらっていた。

 ご馳走とケーキはどうでもよかったが強烈に欲しいものはあった。

 私は寝たきりの母の側で祈った。


(健康と安全が欲しいです)


 そこそこ動ける体となにものにも脅かされない生活は、人類最高の資産だと思う。


 お金があっても体がつらければ楽しめないし、いつ何が起きるかわからない暮らしはストレスがすごい。


〈生きているのが当たり前〉


 という心境はとてつもなく贅沢で幸運なのだ。


 いまは世界的に価値が見直されていると思う。

 でもお店では売ってないので、食洗機とガス乾燥機が欲しかった。


 機械で少ない体力を補いたい。


 しかし誕生日には値が張った。
 でも出かけないので服も要らない。

 そもそも生活すべてが親持ちなので、あえて私物を買ってもらう必要がない。


 大昔、この状況を放っていたら高級なパウダーファンデーションを贈られた。

 上品なピンクのケースで家から出ない私は困惑した。

 結局、母が使ってパートに通い、心底申しわけなく思った。


 数年後、母はアディダスのスウェットスーツを買ってきた。

 グレーで、パーカーのフードとポケットの内側がカメリアピンクの可愛いやつだ。

 デパートで買ったので五桁の品だった。

(部屋着なんて上下で二千円でいいし、その方が気が楽なんですよ‼)

 私は母にテレパシーで訴えた。

 着てみたら緩んだ体が強調されて不格好。

 おしゃれスウェットはスポーティーな体で着るものと学んだ。



(どうしたものか)

 令和の私は居間のこたつで座椅子の背もたれを倒して寝ころんだ。


 居間は六畳でこたつと母の布団が敷いてある。

 事故前は母が毎朝布団をあげて、こたつを中央にもどしていた。


 いまやこたつは脇に寄せっぱなしで、私の座椅子は隣の部屋との敷居に乗っている。

 狭い部屋で寝るだけの母は私になにかしたいのだろう。

(わかるわ)


 居間の隣は私の部屋だ。


 こちらもいつでも眠れるように万年床で、五年前に買ったメッシュの敷布団はぺしゃんこだ。

 マットレスがぶ厚いので寝られたが取り替えどきではあるだろう。

(布団か)


 だが敷き布団なら母が先だった。


 母の布団は綿の三十年物で大分圧縮されている。

 怪我人にはよくないはずで、なにより重い。

 私は重い布団を干すのが嫌でメッシュ布団を選んだが、この先、母の布団干しも私の仕事になるだろう。


「お母さん、腰のためにはいい布団で寝ないと」

 私はノートパソコンをかかげて、メッシュ布団の画像を母にみせた。

 母は娘とおそろいを了承した。

 モノはシングル4キロのメッシュ布団で類似品のなかではお手頃だ。

 さらに安い店を探すと私の布団よりぶ厚いものが半額近くになっていた。

(すごい。でも)


 たぶん重い。


 メーカーや販売店をチェックしても重量の記載はない。

 2センチ薄い私の布団は4キロとあちこちに載っている。


 半額布団はアピールするほど軽くないのだ。


 そのぶん寝心地はいいだろう。でも布団の上げ下げが。


「くそう」


 新しいメッシュ布団は張りがあり母はおおいに気にいった。

 私は古い綿布団を粗大ごみ置き場に持っていった。


 買ったばかりの布団ほど重かった。



 三月になった。


 私は誕生日に現金をもらい、夕食は近所の寿司屋で出前をとった。

 たまに母とランチで贅沢をすることはあったが、家族だと作ったほうが安いので出前やファーストフードには縁がない。


「ハンバーガー美味しかったよ~」


 父は姉の家で結構食べていた。

 去年も泊まりにいっていたので、すっかりなじんでいるようだ。


 姉は料理上手だがパートで忙しいので、昼はときどき買ってきたものが登場し、夕食にすりたて胡椒と美味しいオリーブオイルのサラダがならんだ。

 私は山盛りの生野菜にポン酢かお酢と醤油で、食の細くなった父を閉口させていた。

「お父さん、皺がなくなったみたい」

 私はスマホの父にいった。

「そう?」

 父とはたまにビデオ通話をしていたが、あきらかに顔の肉付きがいい。

「家の中で歩いてる? リハビリで教わった運動をしてよね」

「わかったよ」

 いつものように父は適当にうなずいた。



 疫病の波は着実に世界を覆いつつあった。
 私は厄除けにお雛様をだしていた。

 嫁にいく予定もないので、しばらくだしっぱなしの予定だ。


 わが家のお雛様は手のひらにのる、ころんと可愛い木目込み人形だ。

 虫食いだらけで五人囃子が四人だが、タンスの上にティッシュ箱と赤いフェルトで舞台をつくり、スーパーの桃の花と飾ったら狭い居間が華やいだ。


 しかしニュースものものしく、私はこたつでため息をついた。

「パンデミックを経験するとは思わなかったよ」
「ほんとねぇ」


 事故からおよそひと月が経ち、母は最悪の激痛はおさまったものの以前寝たきりだ。


 桜が開き、緊急事態宣言が発令された。


 正直やっとかと思ったがスーパーではレジががっちりビニールで覆われ、床に足跡のマークが距離をあけて描かれた。


 本気。


 という感じで、病院以外の前線も防御が厚くなってきた。


「いたい~」


 どこかを痛めると他も悪くなるもので、母は四十肩も悪化した。

 またアレルギーと緑内障もあり、皮膚科で塗り薬を眼科で目薬をもらっていた。


 しかし母のいきつけの皮膚科は常に混んでいて、眼科は都会にあった。

 私は皮膚科と眼医者に電話して処方箋をお願いした。

「でも整形医院には通えるんですよね?」

 皮膚科は難色をしめしたものの処方箋をだすといってくれた。

 眼科はだめで私は近所や隣区にも電話した。


「どこも一度診察しないとだめだって」

「ありがと。整形の後、眼医者さんにいくから」


 整形の近所にも眼医者があった。

 小さいがこぎれいな病院で、私は母の整形の診察の間に受付をすませた。

 眼医者は待合室も受付の内側も混んでいた。

 カウンターには張り紙があった。

【当院は処方箋だけお出しできません】


(繁盛店は変わる必要がないんだ)


 コロナの変化はすごいと思っていたが、変わらない場所もあるようだ。

 ともあれ目薬は入手した。
 四十肩の治療はまだだった。


「腰の治療は労災でやってるから、そっちが終わらないとできないんだって」

 母はいった。

 事故は労災と認定され腰の治療費はかからなかった。

 四十肩は自費なので後回しで、母はコルセットを巻いて週に一回整形医院に通った。

「今日は左にしましょうか」

 看護師さんはそういって四十肩で痛む腕に注射をした。

 母の腕は腫れ、オリンピックは延期になった。



 桜が散り、私はこたつ布団をかたづけた。

 五月、自転車で家をでると道路が空っぽだった。


 ニュースは我慢しない人をとりあげるが実際はこんなにすごいのだ。

 しかしスーパーは家族連れで混んでいた。

(わかるわ)

 引きこもりから脱した当初はスーパーが楽しかった。

 その時期をすぎた私は前後のカゴに商品を満載して自転車をこいで、和菓子屋で柏餅を買った。


「もう日傘がいるね」


 日差しが強まるにつれ、母は休み休み家事をするようになった。


「先生、母は家で運動したほうがいいでしょうか?」

「骨に負担がかかるので、一概にはいえないですね」

 私は整形の医師にたずねたが、先生は口数が少なく整形のリハビリ部門は休業中だ。


 それでも母は日増しに元気になった。夏がくると整形医院のリハビリが再開し、母の治療もはじまった。


「とにかく気をつけてね。顔が近づいたら息をとめて」

 私は理学療法士との接触を心配して母をうんざりさせた。


「お母さんが無理しないように止めてよ。頼んだよ」

 父も同じで、スマホの笑顔はすっかり丸い。

「お姉ちゃんのご飯は最高だよ」


 夏の花火大会は中止になり、私は寝こんだ。

 微熱でだるく匂いはあった。

 疲れがたまるとでるいつもの症状で、たぶんちがうと思う。

 その場合、三、四日寝てれば治るが耳鳴りは弱っているときほど大きくて〈安静〉は〈音に耐える時間〉になる。


 私はいつも耐えられずスマホに逃げる。


 無料のゲームや漫画、ニュースなどで、みじめに泣きながら文字を追い、ふとしたコメントに救われたりする。


 だめなときはだめ。


 嵐がきたら逃げるしかない。


 私は耳鳴りで〈負け〉や〈失敗〉を一大事にしないことを学んだ。


 引きこもり中はストレスの塊だった。


 出たいけど出たら失敗するので出られない。

(将来、私どうするの?)

 と不安でぐちゃぐちゃだった。

 でも資格を取るとか体を鍛えるなど有意義なことはできなくて、ひらきなおって休みを楽しむたくましさもない。

(働きたいけど働けなくて毎日つらい)

 こんな悩みを相談できるほどずうずうしくもなく。

(もういっそ、わかりやすい病気になれば楽なのに)

 などと考える自分が最低で親にも申しわけない。


 私はありあまる時間を自分で針の筵にして、それから逃れるためにフィクションに没頭した。

 うまくやれない自分は見ないふりで、治ればなんとかなると放ったらかしにした。


 ないものはない。


 残酷な事実から目を背けて三十年。


〈それでも生きたい〉


 心は決まった。

 後はそれに合わせるだけ。

 私は疲れたら休み、苦しいときはあきらめて元気になったらまたはじめた。フィクションでは修行で強くなるのがお約束だけど、元の体が壊れているので右肩上がりは望めない。


 私は今度も母の世話になり回復した。

 するとビッグボーナスがやってきた。


 

 真の金持ちと貧乏は景気に左右されないという。

 後者のわが家の財源は両親の年金と母のパート代で、母は労災がおりたので大きな変動はなかった。

「なのに一人十万円」

 私はありがたく、通販サイトの食洗機をクリックした。


 母は九月にパートの復帰を決め、姉は、母の体が慣れたら父を帰すといってくれた。


 父の帰宅は十月頃になりそうだ。


 その父がわが家の皿洗い担当だった。

 たびかさなる不祥事に皿洗いを買ってでて、八十過ぎまで頑張ってきた。


 父は三十年近く前、酔っぱらって自転車に乗って転び、右足を複雑骨折した。二十五年前には頚椎の手術をして左手の握力が減っていた。


 母はリハビリ用にテニスボールやゴムバンドを用意し、歩くよういい続けたが父は無視した。それで年を追うごとに歩けなくなった。

 皿は洗い続け、介護保険を利用するようになると送迎付きのデイケアにも通った。


 皿洗いとデイケアは父の貴重なリハビリで、私と母は食べ終わった皿を下げ、洗剤湯につけて、お膳を拭いて重い鍋や洗い残しの皿を後で洗った。

 それらは引っ越しで消え、父が姉宅でトレーニングをしている様子はない。病院へは車椅子で、父が歩くのは段差の少ない家の中だけ。

 もどってきて昭和の段差だらけのアパートで暮らせるか。
 私と母は心配した。


「お父さん、リハビリに歩行器でいけるかなぁ?」

「車椅子になるかもねぇ。付き添いしてくれる?」

「いいけど」

 デイケアの送迎は建物の入り口までで父は一人で出かけて帰ってきた。

 私はデイケアからの電話を受け、父にお迎え時間を伝えればよかったが、これからは送迎と帰り時間の連絡も加わるのだ。


 私は電話も苦手だった。


 耳鳴りで聴覚が敏感なのか、相手先の周囲の物音が堪えるのだ。

 なにかを落としたような音がすると受話器を離してしまい、よくお迎えの時間をききそびれた。


 また外では、大きな音が突然すると心臓が痛いほど驚いて、どっと疲れた。

 元気になると舌打ちですむことが増えたが、工事や配達の物音で驚かされるとついにらんでしまう。


 私の難儀に父の老い。

 母は腰痛持ちになった。

「潰れた骨は治らないの。動いてると痛くなるけど、休めば治るから」


 という母の左肩はあがらない。
 わが家の労働力は減る一方で食洗機が必要だった。


 スピードコースで洗い、蓋を開けて換気扇をまわせば乾燥するとは姉からきいた。

 一番小さいものなので食器の並べ方に気をつかうが後片付けが楽になった。


(給付金ありがとう‼)


 私は台処から感謝の念を発信した。


「gotuキャンペーン始まったね」


 私はノートパソコンをながめながら、こたつでつぶやいた。

 母は布団に寝ころびテレビを見ていて、ワイドショーはgotuキャンペーンの解説をしていた。

 暑さも新型肺炎もおちついて世の中は活気づいてきた。

 国が動いてほしいのは健康不安のある中高年ではないだろうが、私は非常に流されやすいし、母は私に流されやすい。

「お父さんが帰ってきたら旅行は当分お預けだしこんな割引もうないから密なスーパーとか通勤が平気なんだから旅行だって大丈夫」

 いいわけも湧いてきた。

 耳鳴りの後、回復にともない、時々お出かけをしていた。


 電車の移動はどきどきもので、緊張したり疲れるとお腹が動き、体中で力んでトイレまでの時間を稼いだ。

 かつてはそうしたことがたまらなく恥ずかしかったが、逃げ場のない苦痛に比べればトイレに走ればいいだけと思えた。

 もう私は恥や疲労で楽しさをあきらめるほど無垢ではなく〈この自分〉で生きやすいよう変わっていた。

 出掛けるうちに人前も慣れてきて、電車やバスも一応平気になった。


 気持ちだけなら、この三十年で一番楽。

 でも体は難しく、気合や努力でのりこえようにも耳鳴りと不眠がもってゆく。

(どうせ働けないなら、もっと楽しんでおけばよかった)

 お腹と汗だけの若かりし頃を悔みつつ、いまの娯楽に貪欲だった。


 翌日、母は旅行のパンフレットをもらってきた。予約は私がネットでとり、電話で姉に報告した。

 姉によると、近所の歯科が十月中に父の歯を全部治してくれるという。


「じゃあ、十一月ぐらいだね」


 私は父の帰宅を正式に決めて、温泉宿の部屋から浮かれた自撮りとプリンの写メを姉に送った。


〈よかったね〉

 姉の反応は鈍かった。

(忙しいのかな?)

 私は気にせず楽しんだ。

 帰宅して電話すると姉は気まずそうにいった。


「お父さん、入院したの」


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