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激動介護~人生半分引きこもり~2



 旅行の前日、父は脳梗塞をおこした。


 姉は悩みに悩んで連絡をひかえた。

 かけつけても面会はできない。
 ならば旅行を楽しんだ方がいいだろう。

 思ったものの、なにかあったらと気が気ではなかったそうだ。

 父の状態は安定していて、姉は医師からリハビリ病院への転院をすすめられていた。

「リハビリ……あそこはだめかな?」

 私は近所のリハビリ病院を思いだした。

 姉は県立病院のソーシャルワーカーさんに話してみると電話をきった。
 私はこたつにスマホを置いた。

(そうだと思った)


 私は運が悪い。


 頭も悪いし体力もない。


 もし私が父を一番に考える娘なら、母が家事をするようになった夏に父を帰していただろう。でも女二人の気楽さに、まあいいかと流した。

(ドラマなんかだと、お父さんは……)

 不吉な予感を覚えたこともある。
 それでも私は父に戻っておいでといわなかった。


 引っ越しの少し前、父は紙オムツを履きだした。

 父はあまり食べなくなり、私は父から眼医者の付き添いを頼まれた。


 父は毎月、内科、皮膚科、眼医者、歯医者と四つの病院に通っている。

 最初は自転車で通い、足が悪くなると杖をついてバスに乗り、やがて歩行器も使うようになった。

 その後バスのステップが厳しくなり、電動バイクに切り替えた。


 電動バイクも介護保険で借りていたが、今度はバイクの乗り降りと病院の玄関の段差が厳しくなったという。

『あんな遠いところ、近所の眼医者に替えればいいじゃない』

『バス停が近いんだよ』

『電動バイクを借りたとき、皮膚科だけでも近所にすればよかったのに』

 私は文句をいってから近所のバリアフリーの皮膚科へ案内した。

 先生と看護師さんはたいそう優しく、お尻の床ずれに保護シートを張り、分厚くなった爪をやすりで削った。


 眼科は近所になく、私は自転車でゆっくり父のバイクを追いかけた。

 父は三年前、その眼科で緑内障の手術をしていたが、いまは視野検査も難しくなっていた。


 検査は機械をのぞきこみ、なにかがみえるとボタンを押す。

 父はボタンが押せなかった。


 付き添ったときも押しそこね、やりなおしの末、また来週にしましょうといわれてしまう。

『手に力が入らないから、見えるけど間に合わないんだよ』

 父はベッドに腰かけぼんやりすることが多くなった。


(お父さん、このまま死んじゃうかも)

 心配になった私は父とベッドで並んで座って励ました。

 効果はなかったが、それから毎晩、寝る前に父としゃべるようになった。

『お前たちが無事なら、お父さんはどうでもいいんだよ』

『私はよくないよ。もうお父さん、元気でいてよ』

 いつのまにか昔話になり、父の中学が某私立大学の付属校と判明する。

『寄付金で誰でも入れたんだよ』

 だとしても、父は七十年前エリートのはしくれルートにいたのだった。

(一戸建と自家用車、犬にピアノにバレエと大学、専業主婦の母)

 私は昭和の手堅い中流家庭の自分を想像し、ひそかにうなった。

 気づかずに父はいった。

『一つだけ後悔しているのは、お前たちが小さいときに手をつながなかったこと。なんで、あんな簡単なことをしなかったのか』

 お片付けの気配を感じた私は決めた。


(スカイツリーにいこう‼)


 スカイツリーはバスや自転車でいける電波塔だ。

 巨大な商業施設もあって区最大の名所だが、入場料が約三千円で一度は登ってみたいと思うだけで終わっていた。

 交通の要所でもあるので出かけることはよくあった。

 足元を通りすぎるわが家で唯一チャンスがあったのが父だ。開業間もない頃、地元の老人会でスカイツリーのツアーが組まれたのだ。

『お父さん家で一番乗りだ。よかったねー』

 などといっていたが、出発前に足の悪い人はだめ、となった。


 当時、父は歩行器でゆっくり歩けたが留守番になった。私は気の毒に思ったが父と出かけるという発想はなかった。

 わが家では、父は基本単独行動だからだ。

 父がはじめたことだが、このままだと区内の名所はながめるだけだろう。

『こういう機会でもないと私たちもいかないし、タクシー代は出すから』

 私は母を説得し、介護保険で車椅子も借りた。

『週末は混むだろうから、平日、お母さんの仕事が終わったらタクシーに乗って、ソラマチでお蕎麦でも食べて、展望台でコーヒー飲もうよ』

 父は喜び、天気のいい日に出かける予定だったのだ。


 私は握手をしたことがある区議会議員に電話した。

 近所に遊説にきたさいに名刺をもらっていた。あいにく留守でメールを送る。

〈父は十一月のはじめに帰宅するはずでした。また三人の暮らしが戻ってくると思っていましたが、ろれつが回らないそうです〉

 政治家に連絡するなどはじめてで、このやり方がいいのか悪いのかもわからぬが、夕方、区議は電話をくれた。


 翌々日、リハビリ病院から父の受け入れ決定の電話があった。

 入院中の県立病院では、途中のままになっている歯の治療もしてくれて、転院は義兄が車をだしてくれる。


 こうして、父は戻ってくることになった。



「お父さんおかえりー!」
 十一月、私はリハビリ病院の前で義兄の車を出迎えた。


 父は車椅子でぼんやりしていたが話しかけるとうなずいた。

 母はパートで後から合流する。病院はコロナで面会禁止となっていたが、今日は入院手続きで許された。

 病室は五階の大部屋で窓からの景色も中々だ。

「桜が咲いたら綺麗だろうね」

 などといいながら、私は父が自力で見られぬことにひやりとした。


 ほどなく、全員で診察室に移動して診察となった。

 私と姉夫婦は担当医の診察を見守った。

 先生によると、父は麻痺ではなく失調という状態で脳梗塞により体の連携がとれなくなっているという。


 昼食の時間になり、父だけ退席すると先生は私たちに向きなおった。

(厳しい話がはじまるぞ)

 私は丸椅子に座りなおした。


「膵臓の腫瘍と静脈瘤も見つかりまして」

「劇的に回復が見込める、というわけにはいかないだろうと」


 父はいつ死んでもおかしくなかった。


 私はどっと疲れ、空腹でお腹も鳴っていた。
 先生はいった。

「まずは車椅子に座っていられる体力をつけていきます」


 説明も終わり、私と姉夫婦は病室の父を見舞った。

 やつれて顔が皺っぽいが表情は見なれたものだ。

「お父さん、お昼ご飯はどうだった?」

 私は気楽そうにたずねた。

「ど……ど……、っばっか、……だんだっだ……お」

(どろどろしたものばっかりでやんなっちゃうよ)

(変わってない)

 顔をしかめる父に私たちは泣き笑いの感じでほっとした。

 私は明るく声を張った。

「普通のご飯が食べられるようになったら、パンを焼いて差し入れるから、はやく元気になってよね!」

 パン好き老人は何度もうなずき、それから聞いた。

「あ、ああざんだ?」
(お母さんは?)


 看護師さんによると〈入院手続き〉とは先生の説明までで、その後は〈面会〉になるそうだ。面会はコロナで禁止で母は見舞えない。

 父は顔を曇らせ私はいった。

「また来るからね」

 私は手持無沙汰になっていた。

 これが父との最後の可能性があったが、いまのところは生きていて、お互いやることがなかった。

「おお、いい……ら」
(もういいから)

 父は力なくドアの方に手を振った。

 私たちはベッドをかこみ、軽い挨拶にみせかけた、別れの言葉をかけあった。

 いってるうちに泣けてきて父も涙もにじませる。

「おおう、ん、いい……ああ。あ、ばえば……えんえ……」

(お父さんはどうでもいいんだから。お前たちが元気でいてくれれば)

 父は何度もいった。

「……のん、あよ。らのんあよ」
 たのんだよ。たのんだよ。

 元気でいてくれよ。

「わかった。わかったから」

 まわらぬ舌の真剣さに私たちは涙なみだでうなずいた。



【お父さんへ 昨日は久しぶりに会えてうれしかったです。

 すごく辛いと思いますが、どうかリハビリを頑張ってください。

 コロナで面会は難しいけど、私とお母さんはしょっちゅう着替えを届けに来ますね】



 今生の別れの翌日、私は手紙を書いた。

 コピー用紙にマジックで大きく書いてカラーペンで色を足し、裏に旅行のパンフレットから切り抜いた絶景を張った。

 会えないし、電話も難しいのでこれくらいしか思いつかない。


 入院に必要なものは県立病院から持ってきていたが、昨日、看護師さんからサポーターがあるといいといわれていた。

 車椅子や病院のベッドは手足をぶつけがちで、皮膚が薄い父は痣になるからだ。


 リハビリ病院へは近所の公園を通るといい散歩になる。今日は汚れ物があるかもしれないので自転車にした。

 ロビーで待つと父の担当の看護師さんがあらわれた。


「転んだ?」

「ご自分で車椅子からベッドへ移ろうとして転んでしまったようです」

 そうしたことはよくあり、老人は骨折でもすれば寝たきりにつながると説明を受けていた。

 父は幸いかすり傷で、看護師さんも丁寧に詫びてくれた。


『そのときは呼びますから』


 昨日、先生はいった。


 父が転んで静脈瘤が破裂しても私と母は間に合うかもしれない。

 あるいは退院できるかも。

 でも『おかえり』や『美味しいねえ‼』は失くしたと思った。


 父は話し相手でも遊び相手でもないが、帰れば『おかえり』といってくれ、ホームベーカリーでパンを焼けば『もう買ったのは食べられないよ』と喜んでくれる。

〈私〉を喜んでくれる人は片手にあまり、この先増える見込みはない。


『お母さんを頼んだよ。お前とお母さんが無事なら、お父さんはどうでもいいんだから』


 あれが〈保護者の父〉の最期とは。

 父親としては失格で、頼りがいという点では皆無だが、愛情をやり取りすることで父は私を守っていた。



 世界が縮んで私は決めた。

(パンを焼こう‼)


 私の真の病気はこれである。


 あさっての方向に燃えあがり、ほかのことは考えられなくなる。

 このときは、死にゆく父に娘の愛情を伝えねばと焦っていて、いきおいこんで看護師さんにたずねた。

「パンは食べられますか⁉」

 慌てて、父にパンの差し入れをしたいといいなおした。

 相手は笑顔で首をかしげた。

「パンは早いでしょうね」

 父の食事はトロミつきの水分とお粥で、パンは普通食にもどってからだという。

 私はせっかちを挽回するようにゆっくりたずねた。

「それは、大体、いつごろになりますか?」

「医師に確認してみます」

 できることなし。

 私はしょんぼり自転車をこいだ。



「認定調査?」

 家に着くと父のケアマネージャーから電話があり、介護認定の区分の見直しを勧められた。


 ケアマネージャーとは介護支援専門員のことで介護保険のサービスの仲介人だ。


 介護保険とは介護費用の給付制度で、自己負担一割から三割で福祉用具を買ったり借りたり、施設を利用できたりする。

 四十歳から加入義務があって、支給は六十五歳からだ。
(特定疾病の患者を除く)


 支給には〈要介護認定〉が必要だ。

 介護度のランク付けで、要支援1と2、要介護1から5の七区分がある。

 要支援は介護度が軽く、重いほど予算も大きいが、一割は負担するので予算が増えるほど出費も増える。

 また要支援より要介護の方が介護者の負担が重いため、同じ施設に通っても使用料は要介護の方が高くなる。


 父は現在、要支援2なので、再調査で介護度をあげて介護費用を確保しようというのだ。

「審査はひと月ほどかかります。手続きは、お父さんは病院にいるので、ソーシャルワーカーさんがやってくれるでしょう。なんという方ですか?」

 ケアマネさんがいった。

「ええと、たしか」

 私はにぶい頭でソーシャルワーカーさんの名前をつたえた。

「この区では要介護3以上でオムツをもらえます。またはお金で七千円。滞在先の施設がオムツの持ち込み不可だと現金支給になります」

 私はリハビリ病院は差し入れ可だと答えた。

「では現物支給ですね」

 現物支給は宅配達料が七百円で、メーカーやパッドの組み合わせも選べるという。


「認定調査には私も付き添いますので、日にちが決まったらお電話ください」

「いつ決まるんですか?」

「区役所の介護保険課から電話があります」

「午前中は母が都合悪いんですけど」

「午後にしてもらえばいいでしょう。そのときに、母と二人で付き添いたいとお伝えください。私からもソーシャルワーカーさんに話しておきます」

「私はなにをするんでしたっけ?」

「なにもしない。介護保険課から電話が来るから、お母さんと一緒に調査に付き添いたいので午後にしてほしいという」

「わかりました。よろしくお願いします」


【介ご保険か、でんわくる】
【母とつきそいごごがいい】


 私は付箋にメモして壁に張った。

(お父さんに会える‼)


 私の炎は燃えあがった。


「尿パッドとオムツが足りなくなりそうです」

「認定調査の付き添いは、コロナでご家族だけになりました」

「調査の日程は午後がいいとききましたが」

「調査の後にカンファレンスを行いたいのですが」

「レンタル品の回収はいつ頃がよろしいでしょうか」

「倒れる前に、お父さんから髪を切ってほしいっていわれてたから、看護師さんに頼んで、病院の理容室に連れていってもらって」

 急に電話が増えた。

 病院やケアマネ、ソーシャルワーカー、区役所、福祉用具会社、姉などで、私は電話が鳴るたびにどきりとし、メモを忘れてかけなおした。


「面倒だけどよろしくね」

 母はパートと腰、肩の痛みと治療で書類をながめる気力もない。

 私は母の労災や保険の手続き、父の要件で混乱した。


 オムツにも無知なのでノートパソコンでざっと調べる。

 それによるとオムツは基本、尿パッドとセットで使用し、パッドはそのまま股間にあてるらしい。

(オムツは生理パンツで尿パッドはナプキンか)

 私は生理におきかえた。

 尿パッドは男性の場合、三角形に巻いて性器を包みこむ〈漏斗巻き〉なる方法もあった。差し入れのときに看護師さんにその話しをすると父はナプキン方式だという。

「お父様はそのほうがいいようです」
「そうですかー」

 ふっといてなんだが知りたくなかった。まだ保護者の父を悼んでいて、〈被介護者の父〉を受け入れられなかった。


「来月にでも、お父様の介助の訓練を行いたいと思いますがいかがでしょうか?」

 現実は進んでいて、来月、車椅子とベッドの移動やオムツ替えを習うことになった。とまどう私は得意分野で歩み寄った。

「その日、差し入れはできますか?」

 パンはまた早いそうで、ならお菓子と考える。

「プリンやゼリーなどは」
「それなら食事にでますから」

 私はプリンにした。



 差し入れは来月だが、さっそくジャムの空き瓶を引っぱりだす。

 病人にはちと大きい。

 細くて可愛い宿の瓶が懐かしいがプリン液を減らして作ればいいだろう。

 でも。

(プラスチックの容器がよくない?)

 買ってきたもののように見えるだろう。

 私はノートパソコンでプリン容器を検索した。

 十個で五百円など小売りは少なく、あっても高い。

(多いなあ)

 この先もプリンを差し入れるという発想がない。

(スーパーで焼きプリンを買って、空き容器で作る? でも一個だけだと格好がつかない)

〈父になにかしたい〉から〈素敵な差し入れをしたい〉に変わっていた。

 パソコンで容器を探すうち、市販のプリン画像に思いつく。

(モンブランプリンにしようかな)


 父はモンブランが好物だ。


 ケーキはモンブラン一択で、転院の際は出発が朝食前のこともあり、姉が車でモンブランプリンを食べさせていた。


(生クリームとお芋のクリームをのせたら絶対美味しい)

 夢はふくらむ。

 もはや私が食べたいプリンになっていてアイスも添えたくなってきた。

(パフェグラスってどこで買えるの?)

 色とりどりのパフェにうっとりし、ラッパ型のパフェグラスこそ究極と確信する。

 コーンフレークは不要でホイップは純生クリーム。
 チョコバナナのバナナは斜め切りだ。

 私はファミレスのスタンダードパフェに感心し、豪華な専門店にうっとりした。こたつで真剣な私に台所の母が声をかけた。

「それで差し入れはどうするの?」
「フルーツパーラーがいいかな」


【お父さん、こんにちは 今日は十一月十日火曜日です。

 いい知らせがあります。

 介護保険の認定調査が決まりました。
 私とお母さんが付き添います。プリンを作って差し入れますね。

 看護師さんから、お父さんはあまり噛んで食べないとききました。
 よく噛んでたくさん食べてください。

 でも調査の時はあまり元気にしなくていいですよ。 ではまた】



 私と会えるのがいい知らせ。

 書いてから、ずいぶんな自信だとあきれた。


 自転車で病院へゆくとロビーはエアコンが効いていた。

「こちらにお名前と来院時間を書いて、あちらでお待ちください」

 受付の女性のいう通りにしてソファに腰かける。

 汚れ物を持ってくる看護師か看護助士は、仕事の手をとめてくるので結構待つこともある。


 ロビーは吹き抜けで大きな柱があり、奥の診療フロアはしんとしていた。

 紹介制の予約診療なので当然かもしれないが、コロナの影響をみてしまう。
「おまたせして、すみません」

 やってくる女性たちは溌溂としている。

 本人は、お腹すいたとかもう帰りたい、などと思っているのかもしれないが、頼もしさに輝いている。


〈友がみな われよりえらく見ゆる日よ花を買い来て 妻としたしむ〉
                                             
                          

            石川啄木


 私はあらゆる人がえらくみえる。


 特に、お仕事中の人々はすべきことを知っている人の確信でまぶしいばかりだ。

 それに比べて私は、と昔は大変だったが、死にかけた(と思っている)後はそれほど気にならなくなった。


 ならないが立派なものは立派だ。

 家でも外でも働く人は尊いと思う。


 私も家事はしていたが、父が入院、母が骨折した後パートに復帰の状況で〈花〉が欲しい気分だった。

 私の花は食べ物でこのときはスコーンにハマっていた。


 きっかけは先月のgotuだ。

 ハイライトのホテルのアフタヌーンティーにスコーンがなかったのだ。

 引きこもりに外でお茶の機会はなく、子供の頃は蕎麦屋だった。


 母は『ケーキは買って帰れるから喫茶店はもったいない』と考える蕎麦好きで、幼い私はお茶のタイミングでざる蕎麦をすすり、喫茶店のお茶=贅沢をすりこまれた。


 ホテルのアフタヌーンティーは贅沢茶の西の横綱だと思う。

 値段もすごいので縁がないが一回はやってみたい。


 そう、アフタヌーンティーはスカイツリーなのだ。

 電波塔は夏に半額になったらしいがホテルはお高いままだった。私は温泉地の観光情報から、三千円のホテルアフタヌーンティーを見つけた。

(これしかない‼)

 と思っていたのに肝心のスコーンがないんですよ。

 グルメサイトの口コミには〈スコーンが絶品〉とあったのに、三段皿は焼き菓子とミニデザート、洋風おつまみで埋まっていた。

(なぜ⁉)

 私はホテルのソファでスマホをあやつり公式の画像を確認した。

三段皿にスコーンはなく(また私が悪いのか)とがっかりした。


 傷心と消化不良を癒すため、私は家にもどるとスコーンを焼いた。

 作り方は簡単で、小麦粉と砂糖、ベーキングパウダーの粉類とバターをきざみ合わせ、牛乳や卵の液体で一つにまとめ、のばしてカットして焼くだけだ。

 膨張剤をイーストにすると冷めてもしっとりするし、材料の加減で食感も変わる。激安スーパーの冷凍果物をジャムにして、生クリームやクロテッドクリームと食べるとうなる美味しさだ。


 私は病院からもどるとスコーンを焼いて母とこたつでランチにした。

「もうホテルいく必要ない。料理上手でよかったわー」

 私はしみじみ紅茶をすすった。



 私は自分が大好きだ。

 悩みは山ほどあるが現実的には稼いでないことだ。


 わが家は昔から経済的に不安定で、母が一人で苦労していた。

 私が高卒で就職するのは当然だったが、一年も経たずに辞めたことを母に責められた記憶はない。

 私は高校時代、放課後と週末にアルバイトをしていたし、平成のはじめはフリーターが新しい生き方のようにもてはやされていて、母は深刻にとらえなかったのかもしれない。


 しかし私は電車やオフィスにただいるのが難しくなっていた。

 なら短時間の外仕事をすればよかったが、三ヵ月後にはじめたのが官庁の雑用だ。

 汗やお腹は一時のことだと自分に証明しようとしたのだが、通勤は小一時間で、地下鉄は上げた腕が下ろせないほど混んでいた。

 私は職場に着く前に消耗し、ひと月かそこらで辞めた。


 これがとどめで友人付き合いもできなくなった。

 その頃すでに、こちらが望んでも断られるようになっていて友人はいなくなった。


 私は人付き合いが苦手なのだ。


 たぶん、就職先でやったように気づかぬうちに相手を怒らせ、傷つけているのだろう。


 小学生の頃から仲良しグループで一人だけ遊びの約束や誕生日に呼ばないことがあった。

 後日、彼らは私がたまたまいなかった設定で楽しかった出来事を教えてくれる。

 その度に友人だと思っていた人々はエイリアンになった。


 きっと異物は私のほうで引きこもりは自然なことだった。


『働いてよ』

 二十歳をすぎると母に懇願された。

 私はもごもごといいわけし、ごくたまに短時間のテレアポや小さな会社の経理兼雑用、チラシ配り、電話の受付をして、一年前後で辞めるか首になった。


『いってらっしゃい』
『おかえり』

 私は母にいい続けた。

『働いてよ』

 母はいつしかいわなくなった。


 自分の将来、親の苦労。

 私はあらゆるものを無視してすり減った。

 働きだすと晴れ晴れした。


『いってきます』
『ただいま』

 言葉にはお金もついていた。


 労働は最高だ。


 だけど体は汗をかいて腸が動く。

 私は動揺のあまり、しゃべり散らして失礼を連発し、居心地を悪くした。

 私はまともに働けず
 他人とも付き合えない
 親の苦労もみてみぬふりをする人間で

 自分を好きになりようがなかった


 すべて、耳鳴りが壊した。


 頭痛と不眠で死にそうなのに仕事などありえん

 友達もいらん

 無職でいいわ

 家から出られなくても、ゆっくり眠れるなら御の字

 あの頃にもどれるならなんでもする‼


 とまで追い詰められ、私は優先順位を自覚した。


 命


 自分を嫌えるのも生きていればこそ。


 危なくなったらいらないものをぶん投げて、どこからか役に立つものを引っぱりだして生き残ろうとするらしい。


 私はいつのまにか自分大好きになっていて、ちょっとうまくいくと自分を褒め、楽しいことに貪欲になった。


「ほんと、手作りは最高だよねー」


 バターの匂いの居間で私は満足そうにいった。
 ラズベリージャムは甘酸っぱかった。


「お母さん、明日の夜は冷凍庫のカレーにしようよ。お昼はパンでもさっと食べて」

「何時に終わるかわからないものねぇ」


 認定調査の前日、私と母は昼食の蕎麦をすすりながら打ち合わせをした。


 わが家は付き合いが少ないので、公的な予定があると前日から緊張するのだ。食べおえるとプリンを作った。

 横道にそれて奥まですすみ面倒になるのがパターンで、プリンも義務のようになっていた。

 作りはじめると興に乗るのもいつものことで、カスタードプリンはグラスとジャム瓶に四つできた。

 瓶を水で冷やしていると電話が鳴った。

「大変申し訳ないのですが、コロナの現状、食べ物の差し入れは一切不可となりました」

 命が一番。

 瓶プリンは夕食のデザートになった。




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