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蔑ろにされた言葉

 僕は一体どれだけの言葉を蔑ろにしてきただろうか。


 他人の発したある言葉や表現にひっかかる時がある。オカマ、頭がおかしい、人格が歪んでる、etc。こんな言葉が、魚の骨が喉を通らないように、頭の中でずっと鳴り響く。僕は、響きをなんとかないものにしようとして、上滑りな返答をする。あーね、だとか、あーとか。人は、そのまま楽しそうに喋りを続ける。しかし、僕はなんだか油っぽい冷や汗を流しているみたいな気持ちになる。目の前の落とし物を、拾わないまま去るのに似ている。きっとその落とし物は、自分の次にそこを通る人が拾い、検討し、誰かにしっかりと届けるだろう。僕は、その次の人を期待しながらヘラヘラして通り過ぎる。僕は「そんな言い方はないんじゃないの」と言うべきだし言いたくてたまらないのに、乾いた笑いしか零せない。もはや会話は別の話になった。僕が蔑ろにした言葉は永遠に浮遊したまま。


 違和感を抱いたことをこんな風に言葉にすると、自分と話をしてくれる人がいないくなるのじゃないかと怖くなる。そもそも、こういったことは多くの人が経験することのような気がする。少なくとも、自分が人と会話するときは、こんなことを考えず手放しに楽しくて深い話がたいていだ。


 しかし僕が、手放しで楽しく人と会話しているとき、同じように、相手が言葉を飲み込むようなギリギリの言葉を、無責任で言っていることは確実にあるはずだ。僕はそれをいつかは具体的に知らず、忘れ、もう一度頭の中で“再演”することでしかその危険性を感じることができない。実際、冒頭のことだって、五日前の出来事を思い出して書いたのだ。会話は刹那的だからこそ、“推敲”はできず、発語したときにはもう言葉を言った事実を取り消せない。撤回するったって、ある言葉をなかったことにできても、その言葉を言ったという”事実”は強く刻印されたままだ。砂に隠したものも、いずれは掘り返される。


 自分がある言葉を言った事実、他人が発したある違和感を抱いた言葉をそのままにした事実。そんな事実があるきっかけを経て、あるいはとつぜん、頭をもたげて深夜にこんな反省文を書かせる。この文章が単なる消費的な感情で終わらせたくはない。やっぱり言葉を蔑ろにしたくはない。しっかり思ったことは人に伝えたい。ベッドに飛び込む。毛布を被り、巣穴に潜りこんだ穴熊みたいにうずくまってみる。部屋の片隅に吹き溜まった言葉たちを見つめる。それは非常に無力で、無責任で、重大な時間だと思う。

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