寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑦

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑥|水沼朔太郎|note(ノート)https://note.mu/mizu0826saku/n/n5882413442ea

ピュアなゴースト 橋爪志保④
 こんにちは。早速本題に入りますが、『アーのようなカー』と〈死〉についてですね。たしかに、〈死〉のにおいが濃厚ではないかという考え方、もっともだと思います。けれど、既存の〈死〉のイメージとは少し違うような印象をわたしはこの歌集から受けました。なんというか、死をあまり重いものとか暗いものとして受け止めていないようなそんな印象があったんです。たとえば、〈次ページをめくったら死と書いてあるようブランコを折り返すとき〉――この歌ではすぐそばに〈死〉があるんだから、もっと物々しく怖さを言ってもいいのに、あまりそうされていない。ブランコは、手を放してぽーんといっちゃうと下手したら死ぬこともありえる遊具だから、みたいな水沼さんが前noteでされてた読みはわたしも同じ感じでとったんですが、それだけでなく、重力に逆らってあれだけのスピードで「落ちる」に似た行為ができてしまうブランコに〈死〉のにおいを感じても無理はないと思います。でも、この歌の〈死〉、なーんか柔らかいんですよね。でも例えば、〈次ページをめくったら死と書いてあるブランコを折り返すときには〉と改悪してみますと、一気に怖さが増す。直喩を隠喩にしただけで、こんなに変わるのかってほどに。だからつまり、ここは、寺井さんの得意である直喩が、適切な明度に歌を保たせているのかもしれない、とわたしは思いました。まっすぐに喩えを使うことが、ポイントなんです。〈戦前を生きるぼくらは目の前にボタンがあれば押してしまうね〉――これは〈死〉の軽さを直接的に歌った歌として興味深く読みました。もちろん、〈ボタン〉というワードには、核兵器の〈ボタン〉やガス室の〈ボタン〉など、戦争に使われるあらゆる〈ボタン〉が裏に潜んでいるということはわかるのですが、「しまうね」という呼びかけのせいなんでしょうか、それとも「あれば」の仮定形のせいなんでしょうか、はたまた、こういう種類の歌が歌集に少なかったからでしょうか。歌自体がすごくまぶしいほどに明るく感じました。ファミレスで言う冗談くらい(ファミレスには押したら店員が来るボタンがありますね。押したら人が来るボタンというのもこれまた怖くありませんか?まあ、そもそもこの歌はそういった日常にあるボタンのことを言った歌だとは思いますが)明るく。〈真っ黒な宇宙にぽつり浮かんでる胎児は9か6の形で〉――この歌も、9や6といった数字といういたって記号的なものに胎児を例えている点で、生命というものについてこの歌からテキスト以上を想像させない力があるなあと思いました。……ここまで、書いていて、なんだか見えてくるものがありました。この〈死〉への目線はもしや、「ピュア」という言葉によって言い表してもよいのではないか、という考えです。心中のようなスウェットとか、ハムスターの棺桶とか、その他の〈死〉の歌も、なんだか小学生くらいの子供が見つめる〈死〉とあまり変わりがないような気がしてきました。また、解説で東直子さんが書いていたように「死生観」が「クール」である、というのもなるほどと思っています。いずれにせよ、〈死〉についての歌が結構あるにもかかわらず、〈死〉のことを深刻に重~く考えている様子ではなさそうな気がします。でも、言い換えると、これが現代におけるあたらしい〈死〉の姿なのかもしれません。永井祐さんの〈あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな〉の明るさと〈戦前を生きるぼくらは目の前にボタンがあれば押してしまうね〉の明るさに近いものを感じたので(永井さんの歌についてはわたしがよく読めていないところもあるので適当なことは言えませんが)。
 ところで、京都で開催していた『アーのようなカー』展、先日行ってきました!フライヤーにエッセイが書かれていて、そこには、「路上で倒れている三角コーン」をはじめとする、街中や道端にある「ないものとされてきた者たち」と自分が共鳴しあっている、ということについて書かれていて、やっぱりわたしが前回指摘した「モノ」を書く姿勢というのは徹底されたものだったんだなあと改めて感じました。「ないものとされてきた者たち」のことを寺井さんは「ゴースト」と呼んでいて、『アーのようなカー』展では、紙製の三角コーンに「ゴースト」たちの名前を書いて「がんばれ!」と応援するお客さん参加型コーナーがあったりしたんですね。こういうコンセプトを背景にみると、「すっとん恐怖だ~」って言って怖がるのは、ちょっと違うかな、という気もしてきました。なんというか、この歌集が「ゴースト」に対しての応援歌だとしたら、すごく切なく、悲しく、〈うつくしい〉もの、じゃんかよ……と感動してしまったんですよね。また、短歌のパネル展示などもあったのですが、そこでは短歌が五行書きとか、かなり多行でレイアウトされていて、そのことにも驚きました。一行で見せられるとシュールなだけだった歌も、情緒がドバーッ、みたいな、ポエジーが生まれ出る!みたいな印象を受けたんです。歌の読む速度を多行書きによって遅くすることによって、笹井宏之作品の影響も垣間見えた、というか。とにかく、新しい発見がいくつもある個展でした。無論、この往復評はあくまでも歌集の往復評なので、歌集だけを読んで評をすべき、というご意見もあるかもしれませんが、でも本当に面白い体験をしたので書き留めておきます。
ここまで『アーのようなカー』をじっくり読んできて、最終的に〈うつくしさ〉も、奇妙な描写も、両者ともに面白がることができたのが自分の中ではよかったなあと思いました。また、歌集の中の「モノ」たちは「ゴースト」という言葉で言い表されてはいるものの、この「ゴースト」、あまり悪いことはしなさそうですよね。人を驚かせたり、殺したりなんて絶対しないようないい「ゴースト」。実は、それこそがストレスフリーの正体なのであり、さらには主体の「ひとのよさ」とも共鳴しあっているのかもしれないとも思いました。
すみません、長くなりました。往復評、ありがとうございました!

寺井奈緒美『アーのようなカー』往復評⑧|水沼朔太郎|note(ノート)https://note.mu/mizu0826saku/n/n8576480f33b6

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