著者のことば ~歌集『地上絵』出版にあたって~

 橋爪志保という名前で短歌をつくるようになってから、もうすぐで8年になります。橋爪志保というのはわたしの本名でもあるので、この名前を名乗るようになってからの年月をかぞえると、ちょうど28年です。
わたしの28歳の誕生日の明日を発行日とした本、歌集『地上絵』が出版されます。歌集というのは、短歌(57577のリズムを基本にした短い詩です)の作品集のことで、この本には317首の短歌が収録されています。わたしが、20歳から27歳までの間に作った短歌です。
『地上絵』は、わたしのはじめての書籍なので、書物を世に問う、という行為をわたしははじめておこないます。書物を世に問う、ということは、わたしの短歌にほんとうに価値があるのかどうかを読者に問いただすことです。だからとても緊張していて、不安もあり、日々揺らいでいます。企画や宣伝をしたりしながら、今でもどこかわたしはおびえています。さらに言うと、「わたしの短歌にほんとうに価値があるのかどうか」という命題は、「わたし自身にほんとうに価値があるのかどうか」という命題と直結するかもしれないとわたしは考えています。そしてそれらは「この世に生きる価値があるのかどうか・この世は生きるに値するのか」という問題とも密接だと思っているのです。
短歌と出会う前のわたしは、つまらない世界に媚びを売ったり、目の前の他者に暗い薄ら笑いを浮かべたりしながら、頭のどこかでずっと、生まれてこなければよかった、と思い続けていました。わたし自身に価値はなく、この世は生きるに値しない、と信じていました。ところが、わたしは短歌と出会いました。短歌はわたしに、つまらない世界につまらないと言うことのできる口と、目の前の他者を殴ったり抱きしめたり、ときに胴上げしたりすることのできる腕をくれました。しかし、生まれてこなければよかった、という感情はより輪郭を増して強くなったように感じます。けれど、そのことはあまり苦しくありませんでした。わたし自身の価値なんてあろうがなかろうがどうでもいい、この世が生きるに値するのかどうかはとりあえず今日はわからないから明日考えよう、と思うようになったからです。とはいえ、「どうでもいい」「明日考えよう」、と思わせてくれたのは、「短歌がわたしを救ったから」では決して、決してありません。短歌が面白かったからです。それほどまでに、短歌が面白かったからなのです。
わたしは、じぶんの歌集がたくさん売れてほしいと思っています。そしてそれは、金銭や名誉や権力や知名度のほしさ、承認欲求を満たすため、などの理由からではないような気がしています。わたしは、どうなってもいいのです。ただ、短歌というものは面白いことをやめてはいけないのです。短歌の面白さに貢献して、この世のいちプレイヤーとして自立することで、短歌の神様と、真の信仰が結べるのだと、わたしは信じています(短歌の神様への信仰・信頼の話は詳しくは歌集のあとがきに記しました)。
そして、暗闇に光を探すような信仰の先に、あなたという読者が待っているのだと思います。あなたというのは誰かというと、歌集を本屋さんで手にとってくれるかもしれないあなたのことです。歌集をネットで注文してくれるかもしれない、あなたのことです。図書館や図書室、友人から歌集を借りてくれるかもしれないあなたのことです。もしかしたら、これを読んでいるあなたのことかもしれません。
わたしはあなたに、『地上絵』を読んでいただきたいです。わたしはあなたが誰なのか、どこにいるのかはわかりません。だから、わたしはあなたのもとへ行くことができません。けれど、歌集は、あなたのもとへ、あなたの心の中へ、行くことができるかもしれません。
だから、歌集を読んでいただきたいです。
これは、願いに近い、あなたへの、自分自身への祈りです。

橋爪志保

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