(備忘録)実家滞在記、順不同。

2024年1月の下旬に、1泊2日で実家に帰りました。
1年に一度帰省するのを当たり前のようにしていたのですが、コロナ禍をきっかけに「帰らない」が当たり前になってしまい、今年の年末年始も帰省しなかったのですが、身内の、まあちょっとしたことをきっかけに
「したっけ、帰るわ。」
と、いうことになりました。

4~5年ぶりに帰るわけで、帰るとなればやっぱりワクワクするものだなあーと思いました。

行きの飛行機は7:00出発。 早いよ、早すぎる(泣)
4時半に起床。5時に家を出て、6時に羽田着。
空港も久しぶりで、荷物の預けを自分でやらなければならないことに面喰ったり、搭乗ゲートを通るときにはスリッパに履き替えなければならないことに面喰ったり。
あと、機内で音楽を聴くのが楽しみだったのに、そのサービスはもうなくなっていて、イヤホンを持っていくのを忘れたのでスマホのサブスクも使えず。世知辛いことよ とか思いました。

正月早々、飛行機の事故もありましたので、「安全のしおり」を読み、非常扉の場所も確認しました、さすがに。

あっという間に地元の空港に着きました。
弟が迎えに来てくれました、感謝。
外はー2℃。 あったかいじゃん。
聞けば数日前までは吹雪いていて、やっと天気が回復したらしい。

かえってくるたびに、地元が寂れていくのを感じる。
私の町は、平成の大合併で隣の市に吸収されたのだが
自分ちの近所が過疎になるのは言うに及ばず、
地方中核都市と呼ばれる街の、駅前が 寂れているのだ。

駅の真ん前には新しい建物が建っているのでそこだけはきらびやかなのだが、私が10代までを過ごしていた駅前の中心商店街はシャッターどころかどんどん空き地になっていて、もうスッカスカなのだ。
寂しいなんてもんじゃない。

安心してください。ゴーストタウンになっているのは「中心街」ってだけで市民のみなさんはロードサイドのショッピングモールやらディスカウントストアやらで買い物をしています。もとより一人に一台乗用車があって、生活には不便はありません。旭川や札幌に出るのは「日常」だし地元のみんなは不便には思っていない。

「寂れていて、寂しい」っていうのは この地を離れた者の、たわごとなのだ。

母は、思ったよりも元気で安心した。いろんな出来事をメモに残し、週に2度は「老人クラブ」で介護予防のレクをして楽しんでいる。春になったら借りている畑で野菜を作るのを楽しみにしている。

心配の種だった「ぷーたろー氏」は、姉がわざわざ帰ってくるという異常事態を察知したのか、昨年末から新たな職場で働き始めた。1か月経って、とりあえずまだ仕事を続けている、このままがんばってくれよと願う。

帰省の度に必ず会う友人とも会えた。彼女は私よりもずいぶん年下なのだが、2人の孫に恵まれている。2時間ほどマシンガントークをして、大笑いした。

彼女の運転で、出身高校のあたりを回ってもらった。感謝。
変わったところ、変わらないところ、いろいろ。

高校の斜め前には 「推し」に縁のある建物があって、聖地巡礼をしてきた。

地元に滞在したのは 正味27時間ほどだったけれど 
やっぱり、のんびりできたし安心できた。

寒がりの私を神が味方したのか 2日ともこの時期としては暖かく
持ってきた寒さ対策も持て余し気味だった。

中学時代の恩師が(いろいろ病気にもなりつつ)まだご健在と知り、会いにいきたいな、でも私のことなどきっと忘れているだろう・・・と逡巡するうちに結局連絡も取らずでこの旅を終えようとしていた。

駅前のお食事処で、お昼ご飯を食べて帰ることにしていた。
女将さんが、恩師とつながりがあるかたで、
「先生に連絡しなかった」と告げると、
「メッセージだけでも書いてくれたら、渡しますよ」
と、言ってくださった。書いて、女将さんに託してきた。

先生がもし私を覚えていなくっても やっぱり、会いにいくべきだったな。
この旅、唯一の「心のこり。」

帰省先から戻って、日常に戻る。
北海道はおいしいものばっかりで、食べすぎて体重も増えたのだが
心の栄養も しっかり補給できた気がする。

次は、いつ帰ろうかな。




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