自分もかつては「志を持って社会福祉の現場に行こう」と思ってた頃の話

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story-sagamihara-amamiyakarin_jp_5f0e9c03c5b648c301f159f7?ncid=other_facebook_eucluwzme5k&utm_campaign=share_facebook&fbclid=IwAR0CoUf7UP3Bao1zNi2d3sjHQs_U6vcpFzT1SiAUks3iLkw_6NMuxUGYyc4

雨宮処凛氏の文章を読んで正直自分も「同じように福祉職を目指していた」過程を思い出したけど
「津久井やまゆり園」の頃と自分が福祉職を目指していた二十うん年前とそれから更にさかのぼること40年くらい前の福祉の現場はある意味「なーんにも変わっていなかった」ことに今更気づいたのです
自分も「障碍者福祉」をしたくて福祉職を選んだのだがそこから「お前は福祉の仕事には向いていない」と三行半を突き付けられるのだ、それはある意味「正しかった」と思う、しかし「福祉職場」にはやりがいと体力を無駄に消費させ、ひたすら従事者を疲弊させていくだけという旧式な形態の職場も多い
そういう中で自らの高い理想は疲弊の中で簡単に潰れていつしか「良からぬこと」を企むまでに追い詰められていたかもという想像もできてしまうのだ、恐ろしい話だ
そして今は「福祉介護職」はある意味「他では使い物にならない連中の最後のセーフティネットになっているという、介護という大変で命を預かる仕事でありながらそれに見合う報酬を得られないから必然的に慢性の人手不足に陥り、「誰でもいいからとにかく人手がいる」といった事態になっているという訳だ

どうしてこうなるのか???理由は簡単だ

福祉に国は金を出さないからだ、国民には重税を敷きながら「福祉に出す金がない」とうそぶいているのだ
これからの「高齢化社会」って誰が支えるのだろうかと考えるととても恐ろしい、「労働力にならない」年寄りがこれからどんどん増えてくる、「ベビーブーム」で高い出生率を誇った世代が次々と勤労からリタイヤし高齢者としてカウントされるようになれば扶養と労働の層数が逆転する、そうなればこの先やって行けるのか真剣に考えないといけないのだ。
それこそくだらない「反クローバリズム」だとか「女性が子供を産まないからだ」というインチキ論に騙されている場合ではない。
頼れるものは何でも頼ろうとしない限り潰れていくだけだと思うのだ
国には金を出させ、介護者を増やし、負担を減らせ
それができるのなら税金がいくら高くなってもいいのだ
「自助」が先などと言っているようなら弱い人間を切り捨てろということになる、それは全力で拒否しよう
我々はいまこそ「福祉とはなにか」を考えなければならない

私は現在こうして自分のやる場所として新たに「反差別」という方向に進んでいった、たぶんそれでよかったと思う

「津久井やまゆり園」の事件はこんな自分にあまりにも大きな禍根と衝撃を残した、自分がたっているこの場所は容易に弱者を不要とできる社会であるという事実に戦慄した、そしてあまりにもその「社会」に無力であったのだ

私は「社会」が「公共」がきっとこれからも「弱者」や「弱者」となった自分に「不要」という烙印を押してくるであろうと危惧をする

その社会はたとえ自分が省く対象にしなくともその社会に「抗する」意識は常に持っていたいと誓おうと思う

「社会に変えられたくない」からだ。

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