「存在する」という檻。Angel Beats!という哲学。無限に続くこの粘土細工の捉え方。

アニメ「Angel Beats!」を観たのは中学2年生。ヤンキーの友達が「面白いよこれ」って勧めてくれたのがきっかけだった。
まだアマプラもネトフリもない時代、友人のパソコンにDVDを入れて、全話見た。あのとき、アニメに全く興味を持っていなかったあの夜、友人の勧めに乗ったのは本当に大正解だった。

もしあの夜の記憶を通らず今の歳まで生きていたとしたら、私の人生は間違いなく今よりもっと生きづらく、味気ないものになっていたと思う。

Angel Beats!というアニメは、もはや哲学となって、私の中に息づいた。校内の色恋沙汰に躍起になり、モテるために運動やテストや社交性などに人生のすべてを賭ける勢いで取り組み、その実そうした常人的な生き方になんの価値も見いだせないまま日々を過ごしていた当時の私にとって、あまりに破壊的だった。何を破壊したのかといえば、色々あるけど、まずは死生観だ。

私は自分に「死んだら終わり」と言い聞かせて生きていた。死後の世界を信じたかったが、なんとなく、安易に来世に期待するのは良くない気がして、生命を冒涜しないようにととりあえず「死んだら終わり」という死生観を持っていた。そこに現れたのがAngel Beats!だ。

私の死生観と真反対に位置する世界観、つまり死後の世界で繰り広げられる出来事の数々は、初めは私にとってはおとぎ話のようだった。無論フィクションだから、当たり前のことなんだけど。

死後の世界に留まっている少年少女が、神に反逆するために武装し、学校を舞台に様々な作戦を立案、実行していく。
気付けば私はその話にのめり込み、数話見た段階ですでに虜となった。Key作品特有の天丼ギャグや斜め上からのボケ、演出を活用したメタ的表現としてのボケなどで、とにかくたくさん笑った。まるで自分も死んだ世界戦線の一員になれたようで嬉しかった。没入し、Angel Beats!内での日々を楽しんだ。

そして、物語は急展開を迎える。あまり詳しく書くとネタバレになるので伏せるが、これまで面白おかしく日々を過ごしていた死んだ世界戦線のメンバーが消えていくのだ。どうでもいいモブが消えるんじゃない。キーパーソンが消えていく。

まるでサスペンスを見ているようだった。一人、また一人と、昨日まで楽しく話していた人間がいなくなっていく。すでに戦線メンバーが大好きになっていた私は、話を追うごとに「死なないでくれ」という願いが強まるのを感じた。そしてその度、「もう死んでるんだけど」という作中でもお決まりだったフレーズが脳裏に反射する。

なんてアニメだと思った。

死より残酷な別れは、生死の境にあるのではなく、死の先にあった。安易な輪廻転生ではなく、心から願う「生まれ変わったらまた会いたい」という気持ちを、アニメを通して植え付けられてしまった。

このアニメを見終わってからというもの、私の死生観はブレブレだ。結局未だに答えは出ず、とりあえずで生きてきた。

死にたくはないような気もするけど、生きていたいとも思えない。そんな本音に気付いてしまえば「明日を生きる」ことすら難しくなってしまいそうで。本音に蓋をして、未来にむりやり希望を託して、虚勢を張って毎日を渡り歩いてきた。

そしてつい先日、ヘブンバーンズレッド(Angel Beats!の制作者がシナリオを作ったソシャゲ)を始めてみた。ダウンロードしてから一週間が経つが、未だに私はゲームから意識が戻ってこない。主要キャラがいなくなってしまったからだ。Angel Beats!を初めて観たときと同じ、言い様のない苦しさが胸を締め付け続けている。

これはアニメやドラマでよくある「〇〇ロス」という感覚とは少し違う、と気づいたのは、つい昨日のことで。

この胸を支配する虚無感や切なさの正体は、幼い頃から感じていた「存在という牢獄」への恐怖だった。それが姿を変え、素晴らしいフィクションに宿る「美しさ」となって私に降り掛かってきたとき、私はどうしようもなく、この世界に存在してしまっていることが嫌になる。

虚構の中の世界には、始まりと終わりがある。その中には美しいものがたくさん散りばめられていて、その美しいものを手に入れながら、虚構の住人たちの生は幕を閉じる。そんな風に幕を引けるのは、ある種完璧な救いだと思った。

私たちが生きるこの世界には、そういう「幕引き」が存在しない。私が死んでも、あなたが死んでも、変わらず世界は続く。その事実が、フィクションとの差異が、たまらなく苦しい。

Angel Beats!に触れるまで、私は死について深く考えていなかった。だから、「死ねばこの体はなくなり、意識もなくなり、自分は消え去る。でもそうなるとこの自分というものはなんなんだろう」くらいの認識しか抱いてこなかった。

それだけでも充分に難題だけれど、私の場合は「延々と流転するこの世界そのもの」がどうしようもなく怖い。体が朽ちても、この体を構成している粒子は土に帰り、流転し、また新たな何かの一部になる。そうやって、世界は質量を保存し続けながら、何度も何度も何かを作っては終わらせる。終わりのない粘土細工のように。

では、その粘土は誰が用意したものなのか。粘土をこねる理由はなんなのか。この繰り返しに終わりは、意味は、正解はあるのか。そんなことを考えていると、「存在」はそれ単体で牢獄なのだと気付く。仮に魂のような何かがあるとしよう。

魂がある以上、私たちは「存在しない状態」には永久になれない。この体での生が終われば次は石ころとして数千年を生き、次には水となって南極で何千年を生き、雲と海を行き来する時代を経て、またいつの日か地上に生まれ落ちたその時には、また新たな文明、新たな宗教、新たな地形に住み着く人々と生活を始めるのかもしれない。

その繰り返しに終わりはない。だとしたら、私が存在するということがもうどうしようもなく恐ろしい。無限は本当に恐ろしい。現にここに私が存在してしまっているのだから、この仮説が間違っているとは言い切れない。延々と存在し続けることになんの疑問も抱かず、この人間としての生を続けていくことなんて、誰にもできやしないんじゃないか。「終わりがない」という恐怖に耐えられる人は、いるのだろうか。私は耐えられない。

とまぁ、そんなことを考えるようになってしまった。

思えばAngel Beats!を通して死生観が深まったのはいいことだった。でもそこから数歩歩いてみたところ、私の中には避けがたい苦痛が生まれてしまった。存在という苦しみ。未来永劫抜け出せないその檻に閉じ込められてしまった私は、この一生が終わったとしても、もう終われない。「存在する」こと自体が、それを証明してしまっている。

救いは一つしかない。
生きる理由を明確にし、存在が永劫続くのだとしたら「むしろラッキー」と思えるような生を紡ぐこと。
地獄を延々と繰り返すのは苦痛だが、天国を繰り返すのならまだマシだ。私はこの世をそういう世界にしなくちゃならないし、そういう経験をしなくちゃならない。
もしくはそんな大仰なことではなく「生きててよかった」と思える素敵な営みを、たくさんたくさんしなければならない。

この世界が好きで好きでたまらない人からすれば、私の表現や感覚はしっくりこないかもしれない。少なくとも「檻」ではないだろうし。

今は私の目には檻に見えてしまうこの「存在する」ことを、心の底から肯定できたり、愛せたりしたのなら。私もAngel Beats!と同じように、「卒業」できるのかもしれない。まだまだ先は長そうだけれど、とにかく、もう無理に理由をこじつけてこの生を肯定するのは終わりにする。

「いつか死ぬから今を生きる」
だけでは納得できない。
「終わらないとしても、何度でも繰り返したくなる生を」
という条件があって、私はやっとこの命に報いる人生を送れる。

果たしてそこまで真面目に生に向き合っている人間がいるのかは分からないけれど、できればそういう人間とともに生きていきたいと、切に願う。

そうして生に向き合えば向き合うほど、生き抜くキーになるのは感受性だと思い知る。茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」は、今改めて読んでみてもやはり名作だと思った。

もしここまでこの文章を読んでしまった奇特な方がいたのなら、ぜひNHKが掲載している以下の記事も読んでみてほしい。参考になるかもしれない。

https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pXmbYxljG5/

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