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ソジャーナ・トゥルース 32「わたしは女ではないのか?」(マリウス・ロビンソン版)

本書の最後を飾るのは、二種類存在するソジャーナの有名なスピーチ。

 最初の版を聞き書きしたマリウス・ロビンソンはジャーナリストで、トゥルースの友人。彼が発表した稿の題は「女性の権利について」だったそうです。原文はトゥルースが話していた、ニューヨークの標準英語です(実際には母語のオランダ語なまりがあったそうだが、文面からはわからない)。文法も綴りも白人と違わない、ネイティブの話ことばです。

 一方、別のバージョンを書いたフランセス・デーナ・バーカー・ケージは女性参政権の運動家です。彼女が大会の12年後に発表したという「わたしは女ではないのか?」は、タイトルからして間延びした南部奴隷の口語 (Ain’t I a woman?)。「だんなさま、~ですだ」のような感じで、th の音はdと表記され、文法は粗野にして、スペルも耳で聞いた南部訛りをそのまま書き起こしたような不正確さです。

 ソジャーナの言葉を南部の奴隷のように変えることで、ドラマチックな効果を狙ったものでしょうか。確かにこちらのほうが読み物としては面白いですが、後世まで語り継がれた「わたしは女ではないのか?」という決め台詞もケージの創作らしく、まるで水戸黄門の「この印籠が目に入らぬか」のよう。本文では5人とされているソジャーナの子どもの数もなぜか13人になっているし、誇張や脚色がすぎて現在の報道倫理では受け入れられるものではありません。

南北戦争(1861‐1865)の10年前と、戦争の最中に公開された二つのスピーチ。当時の緊迫した状況を思い浮かべながら読み比べてみてください。

https://www.thesojournertruthproject.com/?gclid=CjwKCAiAoOz-BRBdEiwAyuvA60-LBSlqtiFZjUmzncPPYAIdJM9AjDM15KYiwljk9FRQVqFc8lt--RoCDQwQAvD_BwE

* 写真は、ご近所さんが家の前に立てているプラカード。SCIENCE IS REAL は、進化論や地球温暖化を否定する意見に対抗する声明です。

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「わたしは女ではないのか?」マリウス・ロビンソン版

 1851年5月29日、オハイオ州アクロンの女性大会において、ソジャーナ・トゥルースは即席で「私は女ではないのか?」というスピーチをした。聴衆の二人がそれぞれ自分が聞いた内容を書き起こしたため、現存するスピーチには二種類ある。
次のマリウス・ロビンソンが記録した「私は女ではないのか?」は、『反奴隷制ビューグル』(訳注:ビューグルはラッパの意)の1851年6月21日号に掲載された。
 大会で行われた中で最もユニークで興味深いものの一つが、解放奴隷運動家のソジャーナ・トゥルースがしたスピーチだ。しかし、それを紙に書き残すことも、聴衆に与えた影響を伝えることも不可能である。彼女のゆるぎないたたずまいや、気持ちのこもった熱烈なジェスチャーを目の当たりにし、力強い誠実な語り口を耳にしなければ、そのスピーチを理解することはできないからだ。

 彼女は突然演壇に近づき、会長に「ちょっと話をさせてもらえませんか?」と、さりげなく聞いた。許可が出ると、次のように話し出した。

 「この問題について、少し話をします。わたしは女の権利そのものです。私は男の人と同じくらい力があるし、できる仕事の量はどんな男にも負けない。今まで畑を耕し、刈り入れや皮むきもしたし、藁を刻んだり草を刈ったりもしてきた。男でそれ以上働ける人がいますかね? 

 聞いたところによると、男と女は平等だという話です。わたしは男と同じだけの荷物を運べるし、もし十分な食べ物があれば、同じくらいたくさん食べることもできる。力では、どんな男にも負けやしません。

 頭のほうはーー女が1パイントぶん(およそ500CC)のものを理解できて、男は1クオートぶん(およそ1リットル)が理解できるとしたら、どうして女は1パイントの入れ物を一杯にできないんでしょうか。わたしたち女に男と同じ権利を与えないのは、女がものを理解しすぎることを心配しているからなら、そんな心配は無用です。女には1パイントぶんの入れ物しかないんですから。気の毒な男の人たちはすっかり混乱して、どうしていいかわからないようですけどね。

 女性の権利というものがあるのなら、それを女にやってしまえばいいじゃありませんか。そうしたらすっきりするというものです。男だって権利があるんだし、女が権利を持ったからって問題を起こしたりしやしません。

 わたしは字が読めませんが、話を聞くことはできます。それでずっと、人が聖書を読むのを聞いてきました。それで、イブが男に罪を犯させたという話も教わりました。

 女が世界をひっくり返してしまったというなら、女にそれをもとに戻すチャンスをやればいい。マリアさまは、イエスさまが女性を追いやらなかったという話をされていますが、それは本当です。ラザロが死んだあと、マリアとマルタは愛と信仰を持ってイエスさまのもとに行き、弟を生き返らせて下さいと頼んだ。するとイエスさまは涙をお流しになり、ラザロは蘇りました。

 それに第一、イエスさまはどうやってこの世に現われたんですか? 神さまが、マリアさまを通じてお造りになったんでしょう? 男の人の出る幕はどこにもなかった。だから女たちはこれから、神さまのお恵みを受けて浮かび上がります。男も何人かは一緒にね。でもほとんどの男は、解放を求める奴隷と権利を要求する女との板挟みになって、二進も三進もいかなくなるでしょう」

32「わたしは女ではないのか?」(マリウス・ロビンソン版)了


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