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ソジャーナ・トゥルース 18夜明け前

 クエーカー教徒は徹底した平和主義で知られるキリスト教の一派で、今も活発な反戦活動を行っています。新渡戸稲造はアメリカ留学中に改宗して、クエーカーの女性と結婚しました。が、帰国してから台湾糖務局長を務め、その実績を買われて京都大学経済学部で植民政策を講じ、博士号まで受けています。クエーカーは植民地支配も強く反対しているけど、現地の殖産に貢献すればいいのかなあ。そののち国連の書記を務め、軍国主義を批判して苦境におちいる複雑な彼。

 佐藤優の本で「『天は自ら助くる者を助く』の自助は、がむしゃらに血みどろになってする努力であって、ちょっとやそっとの働きでは天は報いてくれない」と読んだ記憶があるのですが、調べたらこの格言は聖書には出ていないそうです。「天国の門をくぐるには」という話だったのかも。イザベラの必死の努力も、天から遣わされたかのような人たちが次々に現れて、不思議な形で実を結びます。

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 この時期のわたしたちの受難者の様子を、「夜明け前が一番暗い」という言い古されたことわざほどよく表すものはないだろう。そのときイザベラにとって、闇は手にとれるように濃く、受難の波は彼女の魂に容赦なく打ちつけた。しかし、明かりはもうすぐそこまで来ていた。

 前の章の最後で失意のどん底に落ちたイザベラは、ある人物と出会った(身元を明かしたいところだが、いろいろと差し触りがあるので控えておこう)。彼はイザベラを哀れみ、クエーカー教徒のところに行くよう教えてくれた。「クエーカーの人たちは息子さんの違法な売り渡しに憤慨していてるから喜んで手を貸してくれるだろう」といい、彼らの家への行き方を教えてくれた。

 彼らはおそらくほかのどの宗派よりもイエスの教えを実践してきた人びとだった。イザベラはさっそくそこに駆けつけた。はたしてクエーカーの人たちは見知らぬイザベラの話に辛抱強く耳を傾けると、同情して協力を申し出てくれた。

 イザベラはその家で一夜を過ごした。本人がひょうきんに語るところによると、「上等の大きくて清潔でまっ白できれいなベッド」で寝るように言われたが、ふだん使っている粗末な寝床とは月とスッポンだったので、座りこんで悩んだ。自分がそんな立派なベッドに案内されたのが不思議でならなかった。しばらくして慣れている床で寝ることに決め、「ごろんと横になりました」と、イザベラは当時の自分のことを笑いながら思い出す。しかし親切な奥様の好意を無にしてはいけないと考え直し、最後にえいやっとベッドにもぐりこんで寝た。

 翌朝クエーカーの奥さんはイザベラをキングストンの近くまで案内し、裁判所に行って大審判で提訴するよう教えてくれた。道をたずねると、目指す建物はすぐみつかった。中に入って最初に目にとまった立派な風采の紳士がきっと大審判に違いないと思い、訴えを起こしはじめた。だが紳士は慇懃に「大審判がいるのはここではないから、二階に行くように」と言った。そこでイザベラは人ごみをかきわけて階段を上り、「たいそう立派な」紳士を見つけると、大審判に提訴しに来たと伝えた。紳士は面白がって、訴えの内容を聞いた。イザベラの状況が深刻なことがわかると、「それならここではないから、あちらに行きなさい」と、別の建物を指さした。

 その建物に入ると、はたして大審判がずらりと並んでいたので、イザベラはまた自分の窮状を訴えた。審判たちはしばらく相談すると、そのうちの一人が立ち上がってイザベラについて来るよううながし、脇の部屋に連れて行った。そこでイザベラの話を最後まで聞くと「確かにその子が自分の子どもだと誓えるか?」と聞いた。
「はい、わたしの子だと誓います」
「待て!」弁護士は言って、聖書とおぼしき本を出した。
「この本に誓うんだ」
イザベラはそれを受け取って唇につけ、またピーターが自分の子だと誓った(訳注:宣誓するときは、右手を上げて左手を聖書におく)。まわりにいた書記たちはいかめしい顔をしていたが、イザベラの失敗をみてドッと笑った。そのうちの一人がチップ弁護士に、奴隷に宣誓させることに意味があるのかと聞いた。

「誰であろうと法には従わなければならん」弁護士は答え、イザベラに正しい宣誓の仕方を教えた。そこでやっとイザベラは正式な宣誓をすることができた。彼女がどのくらい法の精神と意味を理解していたかは、推して知るべしである。

 弁護士はイザベラに逮捕状を渡すと、ニューパルツの巡査にそれを使ってソロモン・ゲドニーを逮捕してもらうよう言った。彼女はさっそくかけ足で8,9マイルの道を急いだ。

 しかし巡査は間違えて、犯人ではなくソロモン・ゲドニーの弟を逮捕してしまった。巡査と弟がノースリバーの岸に立っている間に、ソロモンは船に忍び入り、間抜けな巡査が人違いに気がついたときには、向こう岸の近くまで渡っていた。うまく逃げおおせて弁護士に相談すると、アラバマに行って男の子をすぐ連れて帰るようアドバイスされた。さもないと一四年の懲役と罰金千ドルが科せられるかもしれないというのだった。この時点で彼は、非合法な奴隷の売り渡しはそれほどうまい商売ではないと気づくべきだった。

 ソロモンは身を隠し、旅行の準備が整うとすぐにアラバマに向けて出航した。当時は今ほど蒸気船や鉄道が発達しておらず遠距離の移動は時間がかかったから、彼が出たのは秋だったが、戻ってきたときには翌年の春になっていた。男の子を連れていて、まだ自分の財産として扱っていた。

 イザベラの願いは我が子が戻るだけでなく、奴隷の身から解放され、自分の手に帰ることだった。さもないと息子は、イザベラへの腹いせに虐待されてしまうかもしれない。イザベラは奴隷保有者たちの逆鱗にふれていたから、もし裁判に勝ちでもしたら、彼らの怒りにはさらに油が注がれることになっただろう。

 彼女はふたたびチップ弁護士に助言を求めた。すると、巡査に真犯人を逮捕状を行使するようもう一度働きかけるようにとのことだった。その通りにしたところ、ソロモン・ゲドニーはキングストンまで連行され、六百ドルの保釈金を払って自由の身になった。
 そこでチップ弁護士はクライアントに、次の開廷は数か月後なので、裁判はそれまで休止だと告げた。
「なんですって!あと数か月も待つ?!」不屈の母は叫んだ。
「そんな悠長なこといってたら、ゲドニーさんはうちの子を連れてどっかに逃げてしまいますよ。そんな長いあいだ待てません。いどころが分かっているうちに、いますぐあの子を取り戻したいんです」

「いいかね」弁護士は冷ややかに言った。「ゲドニーが息子をどこかに連れ去ったら、六百ドルはふいになり、その半分がお前のものになる」ーー三百ドルもあれば、一ドルも自分の手にしたことのない奴隷でも「たくさんの子ども」が買える、とでも言いたげな口ぶりだった。

 しかし彼は間違えていた。イザベラはこう言った。「わたしが欲しいのはお金じゃありません。お金をいくら積まれたってごめんです。手に入れたいのは自分の息子だけで、今すぐあの子を返して欲しいんです。裁判が始まるまでなんてとんでもない、そんなに待てやしません」

 弁護士は言葉をつくして説得にあたった。いわく、これまでまわりの人たちにしてもらったことに感謝しなければならない。みんなイザベラのために協力してくれたのだから、法廷が開くまで辛抱強く待つべきだーー。
 しかし、彼の言葉はイザベラの胸にはまったく届かなかった。彼女は「神さま、どうか息子をわたしの手にお戻しください。一刻も早く、悪い者の手からお救いください」という祈りが、文字通り完全に果たされるものと信じていた。

 しかし、そこまで彼女を親切に助けてくれた人たちが、イザベラの強情に辟易していることも承知していた。彼女は、神さまも自分に呆れているのではないかと怖くなった。少しまえにイエスが救世主および仲介者であると教わったので、この裁判でイエスさまが神さまに自分を助けるようお願いしてくればいいと思った。神さまはイザベラのしつこいのにはうんざりしているかもしれないが、イエスさまのことならお聞き届けになるだろう。そこでイザベラは、イエスに祈った。

 外に出てあてどもなく歩きながら「今度はどこのだれに助けを求めればいいだろう?」と考えていると、見ず知らずの紳士から声をかけられた。今も名前さえわからないその人はこう聞いた。

「やあ、息子さんのことはどうなったかね? もう返してもらったかい?」
イザベラは事情をあらいざらい打ち明け、今ではみんな自分をもてあましていて、だれも助けてくれないとこぼした。彼はある方向を指さしながら言った。

「それならいいことを教えてやろう。むこうに石造りの家があるだろう? あそこにドメインという弁護士が住んでいるから、その人に今言ったのと同じことを話しなさい。彼なら手を貸してくれると思う。いいかい、一度くらいついたら決して離さないんだよ。相手が手伝うというまで食い下がるんだ。真剣に頼めば、彼ならきっと力になってくれるだろう」

 それ以上の説明はいらなかった。イザベラは彼女独特の足どりであわててドメイン氏の家にかけていった。ストッキングや靴など、重くて邪魔になるものは何一つ身につけていなかった。

 彼女が弁護士に情熱を込めて状況を説明すると、ドメインは新種の人間を目の当たりにしているような顔でイザベラをしばらく見つめてから言った。
「五ドルあったら、24時間後に息子を取り戻してやろう」
「でもわたしは一文なしです。生まれてこのかた、一銭だって持ったことはありません」
「お前を法廷に連れて行ってくれたポップルタウンのクエーカー教徒のところに行けば、きっと現金で五ドルを用意してくれるだろう。私にそれを払えば、24時間で息子はお前のものだ」

 そこでイザベラは十マイルほど離れたポップルタウンに息せき切って戻り、弁護士に指定された以上の金額をかき集めた。そのお金をしっかりと片手ににぎりしめてもと来た道を大急ぎで戻ると、ドメインが指定したよりもはるかに多くの謝礼を払った。あとになって人にあまったお金はどうしたかと聞かれると、彼女は答えた。

「ドメインさんのために集めたんだもの、ぜんぶお渡ししましたよ」

「バカ正直にもほどがある。五ドルを超えたぶんは自分のために取っておいて、靴でも買えばよかったのに」

「お金も身につけるものもいりませんよ。わたしが欲しかったのは息子だけです。そのために五ドルが必要だっていうんなら、もっと渡せばもっと確実にピーターが戻ると思ったんです」

 もし弁護士が余分な金額を返したとしても、イザベラは受け取らなかっただろう。先生が息子を連れ戻してくれるというのなら、彼女が集めたコインは一枚残らず彼に渡すべきだった。それに、その謝礼は息子と主人を追いかけるためのもので、ほかにもいろいろと手を尽くしてくれるのだろうから、大目に払うのはしごく当然のことだった。

 弁護士は、息子を24時間以内に戻すと念を押した。しかしイザベラは時間の感覚がないので、一日に何度も事務所を訪ねては「息子はまだですか」と聞いた。ある召使いがドアを明けてイザベラを見るとぎょっとして「おやまあ、またこの人だ!」と大声を出した。さすがのイザベラもこの時はやりすぎたと思った。

 弁護士が顔を出して、24時間の期限は明日の朝だから、明日来たら息子に会えると言った。翌朝彼女は、弁護士がまだベッドにいるときに押しかけた。今度はドメインは、朝というのは昼までのことだから、昼になるまでには息子が着いているだろうと告げた。有名な「マティ・スタイルズ」を使いにやったから、生きている保障はないが、男の子と主人は時間までに必ず連れて来てくれるだろう、とのことだった(訳注:Matty Stylesを調べましたが、どうしても誰のことかわかりません。ご存じの方がいらしたら教えてください)。そうして、二人が来たら教えるから、もう家には来なくていいと言った。

 昼餐のあと、ドメインは知人のルツァー氏宅を訪れた(イザベラが待つように言われていた場所)。息子は確かに来ているのだが、母親はいないし、こんなところに母は住んでいないと主張している。だから、「自分で行って本人かどうか確かめるように」という。

 法廷につくと、少年は母の顔を見て激しく泣き出し、イザベラが自分を親切で愛情豊かな友人から引き離そうとする恐ろしい怪物であるかのようにおびえた。それから涙ぐみながらひざまずき、周囲の大人に怖い南部から自分を連れ戻してくれた優しい主人と別れたくないと懇願した。

 ひたいの大きなケガについて聞かれると、子どもは「ファウラーさんの馬にけられた」と話した。ほほに残る同じような傷跡については「走っていて馬車にぶつかった」という。答えながら彼は「ウソだけど、ご主人に言われたとおり話しています。だからいいですよね」とすがるような顔で主人の顔を見た。

 判事は子どもの様子を見て、主人のことはいいから自分の質問に答えるように命じた。それでも男の子はイザベラが母ではないと言い張り、主人にぴったりくっついて自分の母親はそんなところにはいないとくり返した。しかし、イザベラは確かにその子が自分の子だと認め、ドメイン弁護士は法律に反して州外に売られたことを理由に、少年は母のもとに返されるべきだと主張した。さらに、ゲドニーが起訴された場合、そうした犯罪で科せられる罰則と罰金について述べた。

 イザベラは息を殺して部屋の隅に座り、「ピーターさえ戻ってくるなら、二百ドルは検事さんが自由にすればいい。わたしはいろんな人を敵にまわしてしまったから」と考えた。そうして、非力で忌み嫌われている自分が、これまでどれほどの人たちに憎まれてきたかに思いを巡らせて身震いした。

 申し立てが終わると、イザベラは判事が正式な判決として、「少年は母のもとに戻すこと。少年には母以外にいかなる主人も支配者も監督者も持たない」と言い渡すのを聞いた。判決は実行されて少年はイザベラに渡されたが、彼は世にも哀れな様子で、優しい主人から離れたくない、あんな人は母親ではないし、自分の母はそんなところにはいないはずだと言い続けた。

 ドメイン弁護士や書記たちやイザベラは、時間をかけて少年の恐れを和らげようとした。おそらく彼は数か月もの間主人から、イザベラが少年を「優しい主人から引き離して楽な暮らしを奪い、怖い目に合わせる恐ろしい怪物」だと言い含められていたのだろうが、それも真っ赤なウソだと納得させた。

 優しい言葉をかけられボンボンをもらって恐怖が薄れると、ピーターは大人たちの説明に耳を傾けて、イザベラに言った。「そういえば、お母ちゃんはこんな顔してた」

そこでイザベラはピーターがこれからしなければいけないことと、母親と主人の間にいる自分の立場などを言って聞かせた。

 少年が落ち着いてから体を調べると、頭のてっぺんから足の先まで、全身が傷やケガが治って皮膚が硬くなったあとでおおわれていた。息子の変わり果てた姿を見て、イザベラはおぞ気をふるった。彼女によると、ピーターの背中は自分の手を出して指を閉じたのと同じように節だらけだった。

「これは一体どうしたの?!」
「ファウラーさんがムチでぶったり、けったり、なぐったりしたんだ」
「ああ神さま! わたしの可哀そうな子をご覧ください! 神さま、あのひどい人たちに『二倍の罰』をお与えください!(訳注:創世記からの引用) ああ、なんてことだろう、ピート。いったいどうやってこんな仕打ちに耐えたんだい?」
「こんなのどうってことないよ。お母ちゃんがフィリスを見たらほんとうにびっくりするよ。赤ちゃんを産んだもんだから、ファウラーさんが怒って切りつけて、体中がお乳や血にまみれて大変なことになったんだ。お母ちゃんがあのときのフィリスを見たらぞっとすると思うよ」
「お前がこんな目にあっている時、イライザさま*は何ておっしゃった?」
「お母ちゃん、イライザさまは『お前をベルから引き離さなければよかった』って言ってた。ぼく、ひどくぶたれたあと、階段の下にもぐったんだ。そしたら血だらけだったのが乾いて、床板に背中がくっついちゃった。そういうときイライザさまは、みんなが寝ているときに来て薬をぬってくれたよ」

*イライザ・ファウラーのこと

18夜明け前 了 つづく


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