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ソジャーナ・トゥルース 28彼女の意見と考え

 18世紀初頭のニューイングランドの農村で「文字が読める」とは聖書が読めることを意味し、新聞や小説に親しむ人は少なかったそうです。ボストン郊外にある江戸村のような歴史テーマパーク、オールドスター・ビレッジのボランティアから聞いた話です。

 当時の農民の暮らしは、『若草物語』で描かれた文化的な生活や、ソローが著した自然文学や市民的不服従とも無縁だったようです。

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 神が全能であまねく存在する霊だと知ったとたん、イザベラは神について書かれたことをすべて聞きたがった。そうして、創世記の最初の章に書かれている天地創造や世界の最初の住人について、熱心に耳を傾けた。

 最初のうち聞いた話を文字通り受け取った彼女だったが、「神は昼働き、疲れると作業をやめて休まれた」などというところは変に思った。だが、しばらくするとこのように考えて納得した。

「神さまが一日ずっと働いて疲れるのなら、体を休めるためか暗いからかわからないけれど、休息しなければならないだろう。でも太陽の暑さを避けて『涼しい風の吹く日中、園を歩む』(訳注:創世記3:8)ことを望まれるのなら、なぜ神さまはわたしがするほどの仕事もおできにならないのだろう。わたしは真昼の太陽に照らされても平気だし、数日昼も夜もぶっ続けで働いてもそれほど疲れはしない。それに神さまが暗いから夜休まれるのなら、そもそもご自分の姿が見えないほど夜を暗くされたのが不思議じゃないか。わたしが神さまだったら、もっと便利なように夜を明るくしたただろう」

 しかし、神の想像を絶するほどの偉大さと霊性に突然気づいたときの衝撃と、この神への疑問とを重ね合わせた時、イザベラは心の中で叫んだ。
「いや、霊である神さまは疲れたりしないのだから、休むために仕事を止めたりはしない。ご自身の中に光があふれているのだから、ほかの光も必要とされない。だれかが読んでくれた聖書にあったように、神さまは『全てであり、全てのもののうちにおられる』(訳注:新約聖書 コロサイ人への手紙3:11」し、『全てのもののうちに働かれる』(訳注:新約聖書 コリント人への第一の手紙12:6)からだ!」

「神さまがお休みになるわけがない。休憩されたりしたら、ほかのものも全部止まって休むだろう。そうしたら水は流れないし、魚も泳げない。ありとあらゆる動くものが止まってしまう。神さまの仕事は少しも止まることがない。安息日などというものは必要とされないのだ。だが、人間には安息日が必要だ。休む必要があるときには休むべきだ」

 神の崇拝に関しては、神はいつでもどこでも絶え間なく崇拝されるべきだった。イザベラにとって、そこで神を崇拝しなければいけない神聖な時間というものはなかった。

 これらの見解は、自らの経験とごく限られた知識に基づいて彼女の心が編みだしたものだ。イザベラは自分独自の考えを、長い間自分の胸に秘めていた。宗教について主流のものと極端に違う感覚を持つ者に押される、不信心者の烙印を恐れていたのである。 

 自分たちに反対する者どもの精神は濁っており、彼らの霊の目かくしが外されたことは一度もないということは、当時誰もが知っていたし感じてもいた。主流の信者たちはたとえ自らの悲しい経験から「不信心者」と叫ぶことをはばかっても、反対者への非難は必ず口にしたのである。

 コネチカット州で旅をしていた時、ソジャーナはある牧師と出会い、これらの点について、長い議論を交わした。すべてのものの起源、特に悪の起源についても熱心に語りあい、給料を取っている牧師のことを手厳しく非難した。相手の牧師はまさにソジャーナの批判を受ける立場にいたので、自分の地位の正しさを熱心に弁護した。

 今まで書き忘れていた重要なことが一つある。ソジャーナが聖書について考えを巡らすとき、聖書を読んでくれる人にコメントを控えるよう頼んだのだ。

 大人に読んでもらうと、みんな自分なりの解釈で説明をつけ加える。ソジョーナはそれが辛くてたまらなかった。彼女は大人に読んでもらうのを止め、子どもに頼むようになった。聖書が読めるようになったばかりの子は、頼まれれば素直に何度でも同じ文章を読み上げ、自分なりの解釈を垂れることはない。そうするとソジョーナには、聖書の言葉がすんなりと入ってきた。ほかの人がどう考えるかを知るのではなく、自分の頭で考えたかったのである。

 彼女の望みは、聖書の教えと自分の内にいる証人の発言とを比べることだった。そうして理解を進めるうちに、「聖書の教えは真実の霊が語ってはいるが、記録者が自分たちの考えや憶測をまぜて書いている」という結論に達した。ソジャーナの知的活力や、独立不羈の性格をうかがい知れるエピソードだろう。

 ソジャーナがニューヨークを発ったということを知った時、彼女の子どもたちは母の行動をいぶかしがり、心配した。母さんは一体どこに行って、どうしてまたいなくなってしまったんだろう? 誰にも満足のいく答えはなかった。彼らが想像するに、母は頭がおかしくなってどこかをあてどもなくふらついているに違いない。しまいには自殺するかもしれない。彼らは音信不通になった母のことを思って涙にくれた。

 しかしソジャーナはコネチカットのバーリンに着いた時、代書をしてもらって子どもたちに手紙を出した。今滞在しているところに、返事をよこして欲しいという。子どもたちはそれでやっと安心し、母が元気でいて、家族のことも相変わらず愛していると知って喜んだ。

28 彼女の意見と考え 了 つづく


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