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ソジャーナ・トゥルース 前書き(電子版)

 私が最初手に入れたペンシルバニア大学の電子版には、前書きがついていましたが、のちに届いた紙の本には収録されていません。今まで本をもとに翻訳したので前書きは飛ばして、本文を先に投稿していました。

https://digital.library.upenn.edu/women/truth/1850/1850.html

 伝記を聞き書きしたのはオリーブ・ギルバートという女性で、ネットでは「ソジャーナの友人」と簡単に書かれているだけでどういう人物かはわかりませんでした。伝記が書かれたのは1850年なので、ノーザンプトン協会時代の友人だと考えられます。前書きの筆者も署名がなくて不明ですが、これもおそらくギルバートでしょう。

 教養のレベルからいって多分白人で熱心なキリスト教徒の彼女は、信仰の立場から奴隷制を激しく非難しています。南北戦争勃発のおよそ10年前に発表された火を吹くような反奴隷制の文書、当時の情勢を想像するよすがになればと思い、追記しておきます(カッコの中はすべて訳注)。

ソーザンプトン協会の創立者が私家版として世に出した本書は飛ぶように売れたらしく、ソジャーナはその売り上げと自分のブロマイドを売って得た収入とで、家のローンを払い終えます(「自分の影を売って身を支える」と言ったらしい)。しかし数年後にはその家も売却し、新天地での活動に旅立っていったのでした。

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前書き

 この本で語られるのは、一人の驚くべき、賞賛に値する女性の赤裸々な物語である。数奇な運命にもてあそばれた彼女の人生は、苦しい逆境と驚異的な冒険の連続であった。彼女は奴隷として生まれ、一八二七年にニューヨーク州で奴隷制度が完全撤廃されるまで、その無残な境遇に置かれていた。その中で彼女は、貶められた人間の盃から、苦い滓をなめる苦しみを知った。牛やブタと同じレベルで扱われ、長年堕落への誘惑にさらされても、道徳的な誇りや信仰心を失わなかったのは、彼女の魂がよほど強靭だったからに違いない。

 犠牲者の知性を損ない、理解を歪め、その心を奪う奴隷制という名の抑圧の制度を知った者は、必ずそれを嫌悪するだろう。豊かで才能にあふれ、世界に大きな影響力を持ち、敬虔なことで知られるアメリカの富裕層。奴隷制は、そんな彼らの腐敗した目的に大きく寄与してきたのである。

 アメリカ人は、なんと「阿呆な道化ぶり」を「天に向かって演じている」(シェークスピア作『尺には尺を』)ことだろう。彼らは自由という神聖な言葉を罰当たりな意味で使っている。虐げられた人々の神に不敬にも祝福を請う一方で、神の似姿で作られた人間を商品として売り買いしているのだ。なぜ彼らは、自らの罪を恥じて顔を赤らめないのだろう? いや、それどころか彼らは、自らの恥を栄光だと信じているのである。

 年に一回、彼らは自らが歪めた共和制と、キリスト教の名のもとに行っている野蛮な行為を世界に対して見せびらかす(独立記念日の祝祭)。そうすれば人類が自分たちに羨望と賞賛と敬愛の念を抱くだろうと、おろかにも信じ込んでいるからである。アメリカ以外の国々は、われわれの恐ろしい祝祭を、厭わしさと驚きをもって眺める。自分がどれだけ堕落して品位に欠けていたとしても、良心や道徳心や人間性は十分に持ち合わせているので、とてもアメリカ人のようにふるまうことはできないのだ。

 外国人はこう言うだろう。「アメリカのみなさん! あなた方は自由を誇り、独立を叫び、あらゆる暴政に対する敵意を宣言する。また、すべての人は自由で平等な存在として造られて創造主から奪われることのない権利としての自由を与えられたと主張し、鐘を高らかに鳴らし、大砲を耳も裂けよとばかりに撃ち鳴らす。

 しかし、そうしたお祭り騒ぎの喧騒にまじって、ときにはそれをも凌駕するほどの大音響で私たちの耳に響くのは、鎖のガチャガチャいう音と、いまわしい奴隷の身に落とされている何百万もの同胞の叫びや嘆きの声だ! 彼らの置かれた惨状は、あなた方の父が血を流して抵抗した圧政よりもずっと恐ろしく、異端審問の拷問もそれに比べればただハチに刺されたようなものにすぎない! 全国のあらゆる旗ざおやマストには星条旗が誇らし気にひるがえっているが、血の色の縞模様は、あなた方自身が奴隷をこき使う残酷さの象徴だ。あなた方は無辜の犠牲者たちの体にムチをふるう。無慈悲な奴隷商人に売り飛ばされた赤ん坊を再びわが胸に抱きたいと叫ぶ母親の体も、ムチ打ちを逃れることはできない。 

 あなた方の丘は、祝祭のかがり火に照らし出される。華やかなパレードが通り過ぎる。演説もあちこちで行われる。独立戦争の成果が高らかに謳いあげられる。自由の神殿に、最善の、もっとも忠実で誠実な崇拝者としてひざまずくあなた方の姿も見える! 偽善者!うそつき! 無法者! 人さらい! 無神論者! 

 あなた方は人類が持って生まれた自由なるものを信じると宣言する一方で、膨大な国民の六分の一もの人びとを獣同様の強制労働につかせ、商品や財産と同じ扱いをしているではないか! 口では神の存在を信じると言いながら、神の似姿としての人を売り買いし、神の子が自らの命を持って救おうとした哀れな境遇の者たちを売り飛ばしているではないか! さらにクリスチャンを名乗りながら、キリスト教の教えのよすがとしての聖書はおろか、アルファベットさえも蒙昧な人びとから奪い、彼らに重い刑罰を加えている。民主主義を誇りにしつつ、人びとの権利を彼らの髪質と、肌の色によって決めている!

 「自由の大地、勇者の故郷」(アメリカ国歌「星条旗」)を標榜しながら、ほかのどの国よりも多くの奴隷を鎖につないでいる。奴隷を多く所有することで知られるブラジルでさえアメリカの足元には及ばない! 高い道徳心や正直さを自画自賛しながら、三百万人もの人間に結婚を禁じ、彼らが汗水流して得た労働の成果を横取りしている。外国の奴隷貿易には眉をひそめるふりをしながら、国内の同じように残酷で不自然な奴隷売買には精を出し、毎年七万人を超える人びとを新たに奴隷の境遇におとしめているのだ。

 自国の言論と出版の自由、比類なき憲法と栄光に満ちた連合を誇りながら、無条件で全面的な奴隷解放をただちに要求する勇気と神への忠誠心を持ち合わせている人びとのことは裏切り者と呼び、法に背く者として扱う。怪物はあなた方のほうだ! そのようなありさまで、一体どうやって世界の蔑みを退け、天の怒りを免れることができようか? おのれの汚れた人格を救いたくば、そして赦しをここで得て救済をこの先求めたくば、今すぐ奴隷を解放せよ!

 奴隷が解放されるまで、”国の名誉には太平洋の海水をすべてもってしても洗い流すことのできない汚れが染みつくだろう。”(Walter S. J. Swanson 作、奴隷の少女を主人公にした戯曲 Negerinde!からの引用)」

 われわれアメリカ人はこうして人類の非難をあび、呪われ、笑いものになり、ほかの国々で箴言にされ、嘲笑を受ける。無実を訴えることはできない。われわれに対して向けられた非難はすべて真実だからだ。われわれの手によってふるわれる暴力も、他者の財産を奪ってわがものとすることも、まぎれもない事実だ。われわれの手は血塗られている。悪徳の杯はなみなみと注がれている(創世記やヨハネの黙示録に繰り返し出てくる例え。 Gen 15:16, Rev 17:4, Rev 16:19, Rev 18:5-6)。

正しい神よ! われらは心静かにやすらえるだろうか
キリスト教の侮蔑と異教徒の歓喜を受け
いつまでも続く戯言と生きることに満ち足りて
大地のあざけりの的となりながら

われらの栄光に満ちた国土は
欧州が蔑んでやまない呪縛にいつまで縛られるのか
われらのはらからはいつまで鎖をひきずるのか
ロシアの農奴でさえつながれていない鎖を

 全能の神と争い続けるのは、無益で愚かしくて不敬虔なことだ。神の御心はわれわれに反し、抑圧されるものの側にある。生ける神のみ手に落ちるのは恐ろしいことではないのか? 「わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する。姦淫する者、偽って誓う者。雇われ人の賃金を不正に奪う者。寡婦、父なき子、異邦人を苦しめる者を」(マラキ書3:5)

 血濡られた大地に災いあれ!この地は欺瞞と略奪に満ちている。餌食になる者は逃げられず、ムチの音は絶え間なく響く。「公平は後ろに退けられ、正義はかなたに立つ。それは、真実が道に倒れ、道義が入れないからである。まことは失われ、悪を避ける者はその餌食となる。主は見ておられる。そして、審判のないことを嘆いておられる。主は報復を衣としてまとい、熱情を外套として身につけられた」(イザヤ書59:14-17)

 われわれはただちに自分の重荷を下ろし、抑圧されたものを自由にすることで改悛し、自らの行為を改めなければならない。さもなくば主は怒りをもって刃向かうものを罰し、敵の罪に十分な報いを加える。「主はすべて虐げられている人々のために、正義と裁きを行なわれる」(詩篇103:6)

 「 主に感謝せよ、主は恵みふかく、その慈しみはとこしえに絶えることがない」(詩篇103:3)「エジプトの長子を皆殺しにした神よ、その慈悲はとこしえに続く」「ファラオと軍勢を紅海に沈めた神よ、その慈悲はとこしえに続く」「「主にむかって歌おう。神は輝かしくも勝ちを得られた。神は馬と乗り手を海に投げ込まれた。神が息を吹かれると、海が彼らをおおい、彼らは鉛のように大水の中に沈んだ」「主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、讃えるべくして恐るべきもの、くすしき業を行うものであろうか」(出エジプト記)「 全能の父よ、これはまことにみこころにかなう事だった」(マタイ11:26)

 正邪の戦いと自由の奴隷制とのせめぎ合いにおいて、ハゲタカや吸血鬼のように人間の血をすするものたちが邪悪でなければ、だれが邪悪だというのだろうか? また、貧者から略奪し、よるべないものを痛めつける者、「奴隷、そして人身 」(ヨハネの黙示録18:13)を売買する者は邪悪ではないのか? 論証や真実の光や良心の痛みや公正無私を避ける者が臆病でなければ、だれが臆病なのだ? 

 ウィスキーに酔い、自分の利益のためなら人殺しもいとわないと肩で風を切り、夜の帳が下りるとともに町をうろつく者どもはどうだ? 彼らは「自由な議論はやめさせろ! 出版の自由もなしだ! 嘆願の自由がなんだ! 法律もくそくらえ!」とまるで獣か悪魔のように喚く。そして郵便の袋をライフルで撃ちぬき、印刷機を川に投げ込み、「美徳、自由、独立」を標榜して、不可侵の人権の擁護者を助ける市の集会所に火を放つ。

 「実を結ばない闇の業に加わらず、それを非難」( エペソ人への手紙 5:11 のもじり)する者が正義でないなら、だれが正義と言えるだろう?「働く者がその報いを得るのは当然」(ルカ書10:7)であり、結婚は神聖な制度で、奴隷制は神に呪われていて、圧政者は人類の敵であり、束縛からの自由を望むものはただちに解放せねばならないと主張する者が正しくないのなら、だれが正しいのだろう?

 ものごとの正誤を追求し、開かれた場での言論の自由と出版の自由をひたすら求める者が勇者でなくて、だれが勇者だろう? また、光からこそこそと逃げるのではなく、白昼堂々と前に進み、敵に狼の巣のような穴倉から出るよう促すものが勇者でなくて、だれが勇者だろう? その敵はよく見れば、金の塊を盗み(ヨシュア記7:20)、隠しは三十枚の銀貨でふくらみ(ユダがキリストを密告して得た報酬)、衣は無実の者の血が沁みついている(エレミア書2:34)ことがわかるだろう。

 次の物語を読んだみなさんが一人でも多くこの国の有色人種の痛みに心を寄せ、アメリカの土で屈従にあえぐ人びとすべてを解放するための運動に力を注ぐことを願ってやまない。

ソジャーナ・トゥルース 34 前書き(電子版)了


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