見出し画像

noteをはじめた理由

直裁的な理由ではないけれど、母が10年前の冬に死んだ。がんの闘病で家業を辞めたり、お金の整理をしたり、今でいう終活をしっかりして旅立っていった。


私は長女ではあるが、実は第一子に女児が生まれ、生後数日で虚弱児だったからか亡くなってしまったとのこと。生かされたのだな、と思う。


両親で生花店やらフラワーアレンジ教室やらを経営し、バブル時代には3店をやりくりしていた。流石に24時間は働いていなかったと思うが、営業も店舗運営も、とても大変だったろうなと思う。ピーク時には、週4、5日は外食で、土日だけが母の手料理を食べられる曜日だった。

器用な母は、昔は洋裁教室を子育てをしながらやっていたり、料理上手でスーズートーとかローストビーフとか、そして私の好物のチーズケーキをよく作ってくれた。外食もいいけれど、自宅で食べる食事もとても好きだった。


母が珍しく健康診断を受け、がんが見つかった。当時はステージ2ではなかったか。たまたま私の取引先が保険会社だったこともあり、通院をはじめた母の病を調べたりしたが、なんの役にも立たず、母の病は進行していった。

入退院を繰り返し、2011年の夏頃、私は1回目の転職をした。出版社に入社し、母も昔読んでいた雑誌を発行していることもあり、とても喜んでくれた。実際は、残業まみれで、トップダウンの企業だったので、母の死後、3年後にまた転職するのだけれど。

秋になり、容体が悪化し、退院のタイミングも選ぶような状況になった。母は短い退院の期間に、ローストビーフとチーズケーキを焼いてくれ、彼女が好きな東北の洋梨を取り寄せてくれていた。そして、チーズケーキのレシピもノートに残してくれていた。


入院時には、翌年2月に海外挙式を控える弟とよく看病に行ったが、看ることはほぼなにもできず、お見舞い程度の滞在だった。

ある日、母の歯を磨こうと、水の出るところまで母を負ぶった弟が、涙を流しはじめた。私も母の口を開き歯ブラシを動かし、水を含ませて吐き出してもらい、母の顔が見られなくなった。弟の代わりに母をベッドまで連れていき、母の命がもう長くはないことがわかった。


勤めはじめたばかりの会社で、見よう見まねで仕事をしていた12月19日だったか、病院から電話があり、母の危篤ということが知らされた。パニックになっている父は私たち姉弟以上に役に立たず、弟にも祖父母にも連絡をして、所属する部署の上司に泣きながら伝えた。上司は「お前、電車なんかでのろのろ向かうんじゃないぞ、大事な時間なんだからな、タクシーで急いで行け!」とつんのめるくらい背中を押された。


母は早朝に亡くなったのだが、勤め先を出てから30時間が過ぎており、喉に溜まる痰を機械で吸うなど、この時ばかりは学生時代の歯医者でのバイトが役に立った。「姉ちゃん、すごいじゃん」と弟もいった。うとうとしていた朝4時頃か、母が苦しそうなのを誰かが気づき、「痰が溜まっているみたいだよ」と教えてくれたが、「大丈夫だよ」と私は寝惚けていい、そのまま目を閉じた。


呼び出し音で目が覚めた時には、母は危篤のさらに先。それまでは話しかけても呼吸の音くらいしか聞こえなかったのだが、その時に「ママ!ママ!」と声をかけると、私の名前を掠れた声で呼び、「ありがとう」といってくれて呼吸は途絶えた。たぶん、反対側にいた弟は、弟自身の名前が聞こえたと思う。私たちは聞こえているか聞こえていないかわからないけれど、母にも「ありがとう」といって、その直後から葬儀の準備に明け暮れた。


母を失ってから、いつ、私の時間も終わるのか、誰もわからないことに気づかさせられた。

病気もそうだし、事故や事件に巻き込まれることもあるかもしれない。そう思って、明日できることを先延ばしにするのを辞めた。

仕事もそう、プライベートもそう。高校時代の工芸の授業で好きだった陶芸を習いはじめ、ランニングや美大編入、旅行などもなんでも詰め込んで生きている。


銭湯やサウナ巡りも、その一貫にある。わかりやすいゴールがあり、身体も癒される。母は仕事や病気のためできなかったが、色々な場所に行けて、趣味の友だちもできる。そういう気待ちで、とあるサイトで自分の訪問した施設情報を書いたり、読んだり、楽しく利用していた。

先日、とあるサウナーから送られたコメントで、そのサイトへの積極的な記事掲載を控えようと思うに至った。そして、そのサウナーの指摘する文字数が長すぎる、前後編、読みにくい内容、というものを書き続けたいので、新たな場としてこちらを使うことにした。使い勝手はまだ未知数だけれど、備忘録も含めて、利用してみようと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?