スマホを見ている人が少ない光景
ラーメン二郎でスマホを見ている人は少ない。店員に「ニンニク入れますか?」とコールを聞かれていることに気づかなかったら怒られるからだ。(あと単純に調理風景を見て、早く出来ないかと腹を鳴らしている。)
ライブ前にスマホを見ている人は少ない。開演前のステージを見つめて、今か今かと登場を待ちわびているからだ。
Jリーグのキックオフ前にスマホを見ている人は少ない。スタジアム全体に熱量と緊張感が走るからだ。
これらはどれも待ち時間であり、余白の時間である。
所持することが義務化されているわけでもないし、誰もが見なきゃいけない情報を抱えているわけでもないのに、ちょっとした隙間時間でも皆んなスマホに視線を落としている。そんな光景が当たり前になりすぎて、スマホを見ている人が少ない光景が逆に珍しいものになっている。
また、そんなことを意識して街を歩くと、スマホを見ている人が多すぎて、その光景を異様に感じたりもする。
手持ち無沙汰な状態が不安なのだろうか。もしくは手持ち無沙汰の隙に丁度良いコンテンツを投げ込まれているからなのか。
多分両方だろう。人間は暇に耐えきれない生き物なのだ。だから暇を恐れて、ほぼ無意識にスマホを弄っている。その弱みにつけ込んでコンテンツも投げ込まれている。
では、スマホや携帯が無かった時代の人々は隙間時間にどんな過ごし方をしていたのだろう。じーっと物思いに耽ったり、ぼーっと何も考えてなかったりしたのだろうか。「暇と退屈の倫理学」にも書いてある通り、過去の人たちもそれなりに暇と退屈には悩まれていたのだろう。しかし今よりは誰とも接続されていない余白が多かったのでは?と思っている。
昔のドラマだと河川敷や公園でじーっと、ぼーっとしているシーンがよくあった。(今だったらSNSを弄ったり、好きな人からのLINEを待つシーンなのだろう。)
そういう誰とも接続されていない「余白」、違う言い方をするなら「孤独」が今は不足している。
そんな僕も同じように暇や退屈に耐えられない生き物だ。このnoteを書いているのも暇や退屈に耐えきれず、そして何かやってないと落ち着かず、書いている。
しかし改めて余白を作り、孤独になる時間も必要なのだと感じる。
外部からの雑音が悩みを生み出し、悩みを解決するのは孤独の中での自問自答だからだ。
冒頭の光景は、ある目的に対して没頭・没入している。没頭・没入を作らないと余白は生み出せないくらい、スマホは僕らの可処分時間を根こそぎ奪い取ってくる。じーっと、ぼーっとすれば良いだけなのに意外とそれが難しいのだ。
さて、GWが始まったがそこそこ暇である。これを書き終えたら、じーっと物思いに耽ったり、ぼーっと何も考えてないで過ごすコツを掴んでやりたいと思う。スマホの電源を切れば良いだけなのだろうけど。
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