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今日の話題 「病」 「手紙」

ここ最近、
かぶれが連続して発生しています。
つい昨日癒えたけれど、
この前は、癒えたと思った翌日に
同じ体の箇所でまたかぶれ、
もしかしたらずっと
治らないないのでは?
と思ってしまいました。
恐かったです。

なぜ恐いのかと言えば、
おそらくかゆいからです。
見た目がどうであれ、
かぶれの一番の問題はかゆみです。

ずっと、ずっと、腕がかゆい生活が続くとしたら、、、
と考えると気が滅入ります。

ですが、
そうなるとも限りません。
仮にかぶれが常態化したら、
それにはもうかゆみは伴わないのでは、とも思います。
「常態化した病は、ただの特徴に変化する。」

皮膚感覚的な刺激を感知する仕組みというのは、
常に刺激や異常に対して
敏感である必要があるのだと思います。
体はそのような仕組みを優先するような気がして。
「もうずっと現れているこのかぶれは病とは言えないな」と
からだが判断したあたりから、かゆみは消えるのではないかと思います。
その他の、本当に気にかけるべき刺激や異常にフォーカスしてゆくのだと思います。

裏を返せば、今自分の個性だとか特徴だと思っているものも、
発生的には病と類似するものだと言えそうです。
常態化しているから近似的に「自分」だと認識しているだけで。

「すべての才や力や材といふものは、人にとどまるものではない
(ひとさへひとにとどまらぬ)」

宮沢賢治「宮沢賢治詩集(草野心平編)p113~116「告別」より抜粋

こう言っていたのは宮沢賢治です。
病も。才や力や材の仲間だと思います。


当たり前だと思っているじぶんの性質も、
最初はかぶれのように、違和感とともに迎えられたのかもしれない。


それは最初、病であった。次に当たり前になり。
そしていつでもなくなりうるもの。


手紙

ヴァイオレット・エヴァーガーデン
という題名のアニメーションを見ました。

※アニメーションはNetflixで視聴可能

「届かなくていい手紙なんて,ないんだよ」

自動手記人形という,手紙の代筆を生業とする
一人の少女の物語。

物語ですが,
12話分の全編を通して,
1通の手紙として書かれているかのように
感じました。

***

手紙や物語を読むときに、

自分にとっては非日常でも、
誰かにとっての

悲しかったり、懐かしかったりする
「当たり前」に
ふと溶け込めるような気がします。
そういうことを心待ちにして
読んでいるような気がします。

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の中にも、
戦争や、自動手記人形サービスといったものが
「当たり前」の日常として
さりげなく、滑らかに登場しています。
悲しさも、懐かしさも、
淡々として。まるで手紙に書くように。

その手紙を読む人は、
そこに当たり前に流れている
何か親しみ深いものを読み取って、
その世界に自分を溶けこますようにして
感じとることができるのだと思います。

「当たり前」が
こなれていて滑らかで、
柔らかい感触であるほど、
そこに寄り添いたくなってくる。

その人にとっての
当たり前の暮らし。
愛着のある表現。

それらに、外部のものとして、
可能な限り優しく関わりたいと願います。

うちも、文章を書くならば、
手紙のような文章がいい。

「だれにも届かなくていい」文章なんて書きたいと思わないし
「誰もかもに届いて欲しい文章」も、
書きたいと思わなくなってきました。

少なくとも、あなたにだけは届いて欲しい。
そう思える事柄だけはとりあえず、
書いていけるような気がします。


28.7.14,Mizuki

絵を描くのは楽しいですが、 やる気になるのは難しいです。 書くことも。 あなたが読んで、見てくださることが 背中を押してくれています。 いつもありがとう。