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花と精神(29歳8月16日の日記)

敷き布団のカバーが裂けてしまった。
掌に満たない大きさの裂けだけれど、
なんだか気になってしまう。
はやく新しいのを買わないと、とか

どうしてかな?

眠りという大切な
安心な行いの
底が割れてしまうような気が
するのだろうか

服でも、シーツでも、
座布団でも、
暮らしの中の布が裂けるのは
妙に気になる。

破れのない布の存在は、
私の暮らしの
安心を形づくっているのかもしれない。

******

ゆきやなぎ、という題の絵を描いたことがあった。

花なんて大人に似合いはしない…と、
父親の聴いていたCDの曲にあった歌詞を
そのまま覚えてしまっているけれど、

ゆきやなぎの似合う人、というのは、
その歌詞とは別の意味で、
いるのかもしれないと思う。

似合う、というよりは、
そのものだというか、

精神というものがあるとすれば、
その人の精神は、その花の精神と
通うところがある、というような意味で。

花にも精神があると思ってしまう。

人と同じように。

人に精神があると思ってしまうのと
たぶん同じ理由で。

その場合の、精神というものは、
静かな泉、とでも言うようなもので、
奥底のところに
ひたひたと
押しも引きもせずに佇んでいるもの。
じっとして、震えているもの。

踏み荒らされる事を恐れ、
奥底にしまわれているもの。

(そういうものを感じてしまうのは
うちがうちであるからなのか。〉

花の精神は、人からよりも感じ取りやすい。
それは、おそらく踏み荒らされる機会が少ないからだろう。
震えが、仕舞い込まれていない。

ただ、花に震えを感じ取る気持ちを持っていると、
人の佇まいにも、
同じ震えを感じ取れる気がすることがある。



うちは、
ゆきやなぎの花の震えが好きで。
きっとそのような人も好きなのだ。

好きというのがどういう気持ちなのか、
ここでもまた説明に困るけれど、

卵からかえった雛が
初めて見るものを
信じてついて行くような

そういう気持ちなのかもしれない。

祈りにも似たような。

ごめんねゆきやなぎのはな。
ついてゆかせておくれ。

しばしの間。
魂の伴走者として。

29歳.8.16, Mizuki

絵を描くのは楽しいですが、 やる気になるのは難しいです。 書くことも。 あなたが読んで、見てくださることが 背中を押してくれています。 いつもありがとう。