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親孝行とは

シェアハウスに暮らし始めて2ヶ月あまり。温泉だったり、また祖父の葬儀だったりと、毎月何かしらで(期せずして)実家に帰ることが多かった。そして今朝、母からメッセージが。「先週は楽しかったね。明日は父の日だよ☺」返した方がいいのかな。どう返すか、既読をつけたまま考えている。帰ってこいということかな。でも、今日は県内にはいるけど明日はご縁あり、初の滝行に行くのだ。

先週、旅行で彼女が立ち寄ったアウトレットで買った服を間違って持ち帰ってしまったので、返しに行きがてら庭になりつつある蔵前や浅草をぶらぶらした。「月一会ってくれる?」と言われた。まるでデートみたいな言葉だ。一人っ子でただでさえ会話が両親の間でない環境だから、今は尚更無音なんだろう。お互い、好みや考え方が全くあさっての方向を向いているので会話が成立する素地がないというか。たぶん、私がそれなりに手がかかっていた大学卒業する22歳ぐらいまでは、学費などもろもろ、会話の共通点があったのだろう。

別に家庭崩壊してるわけじゃないし、放任で自分の選択を尊重してくれたのは感謝してるが、なんとなく帰りたくない。掃除しなさいよ、から月一ゲストのように、掃除しといたから、て言葉に変わってから、距離感がはかりかねている。お客様扱いといったような。私が帰っても無音なのはあまり変わらないんだけど。それがむなしすぎて、家を出た、てのが本当の理由なんだろうなと最近うすうす分かってきた。

兄弟がいたら、たまに会うお隣さんみたいな程よい距離感なんだろうな、と葬儀でいとこに会って話しながら思った。親の視線が、私にしか向かない。小さい頃は、兄弟いた人はもっと自分のことを見て欲しいとよく話していたけど、大人になった今は、子のことばっかり話題にされても、煩わしいなと感じる。例えば、将来一緒になりたいと思う人はできた?とか、いつまで今の仕事続けるの?とか。ご飯の合間に挟まれるのだ。

確かに「将来設計」としては必要な話ではあるんだろうけど、往々にして現状の至らないところしか目がいかなくなる(自分のコメントや、相手からの応答から)から、そんな会話はメンタルを消耗させるばかりで、じわじわと、家が休まる場所じゃなくなっていた。人生をある程度生きてきて、そのあとの結末をなんとなく予想しながら生きているだろう両親との、子が精神的に自立してからの同居はなかなかきつかった。

一緒の場にいたらそんな会話がこれから続くなら、距離を取って少しずつ行きたいところ、思うところにゆっくり歩を進める生活がしたいと思ったし、現にそうできている。

平日仕事、週末休みの基本のルーティンは守りながらも、朝ドラ見ながらうーんと住人と見入ったり、星野源ファンの子とライブ音源DVDをつないで熱唱したり、ときにはノスタルジーを感じる場所について話したり。ふっと、そうした瞬間を経て考えたり思ったことが出てきたり。今、ここに没入する時間が落ち着いたあと、親孝行についてつらつら考えている。

顔をみせること、節目にプレゼントをあげること、また定期的に会うことが親孝行として必須なのだろうか。親の子に対する孝行は、ご飯を食べさせ、寝かせ、排泄の助けをし、大きくなったら学費の工面など、自分がしてもらったことを思い出して浮かんでくるが、子の親に対する孝行ってなんだろう。と思う。誰にも拘束されない、今のこの時間を少しでも長く楽しみたいという我儘な気持ちと、親に対する義務感を感じてしまっていることに後ろめたさを感じながらの日々だ。つらつら書いても、核心にたどり着いてないような、もぞもぞしてる感触がまだ残っている。

実家から遠ざかり、そこからも微妙に遠い、県内だが前泊先のまちが近づいている。

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