見出し画像

横並びから逸脱する恐怖ー「国葬の日」を観て

もうそろそろ、安倍元首相の国葬から1年が経つ。X(旧Twitter)を見ていたら、日頃「ヒルカラナンデス」でおなじみのラッパー、ダースレイダーさんのスケジュールのつぶやきで21日、大島新監督による新作「国葬の日」アフタートークで監督と登壇されることを聞き、すぐさま観に行った。

国葬が行われた9月27日、九段下のみならず札幌や沖縄など、全国数カ所で同時期に、いろいろな人にランダムにインタビューしたものだ。国葬そのものが行われることは知らなかった、から、皆いい人と言ってるけど政治の実績とは別物では?など疑問視する声まで様々だった。
国葬に対する是非云々よりも、浮き上がってくるのはこうした市井の人々の全般的な無関心・何か「政治を語るのはタブー」、横にいる人たちから逸脱していないか内心びくびくしている。とりわけ、20代前半など若い世代は安倍元首相の8年間が物心つく期間だったので、物腰柔らかい印象が強く残っているのだろう。「空気」が支配する日本社会だが、ここまで空虚というか、本質的な思考が見られない言葉があるかと思った。

安倍元首相を支持する、よく見られる意見の一つとして「外交姿勢」という意見があった。だが、実際は辺野古基地建設を何度も県民が住民投票や県知事選を通じてNOをつきつけたにも関わらず、米軍の言いなりで土砂の埋め立てを強行し、あるいは中国・北朝鮮への強硬姿勢が加速した。腕っぷしではなく、相手の状況を把握しながら交渉によってお互いにとってWIN-WINにしていくことがあるべき姿だが、トマホークの購入にもつながるように「弱い犬程よく吠える」パターンで武力あるんだぞと幼稚なアピールをする。続く不況で、日々を送るのに精いっぱい、世の中のこととか考える余裕がない、その中でネタになるというか、「なんかがんばってんじゃん」という世論をたやすく醸成する流れをこの8年間、つくってきたのではと見終わって感じた。日本の外交姿勢は、西洋に対しては人身御供的、非欧米諸国に対しては誇張をして過ちを認めない、なんとも裸の王様的な姿勢で両方とも立場を持った、本来の外交とはいえないだろう。

「なんかがんばってるから安倍さん/自民党に投票するか」というのが消費税増税やコロナ禍で減税されなかったり、あるいはマイナ保険証が強行されたりと、知らず知らずに私たちの生活の切りつめに関わってくるようなことを平気でやる。いじめっ子の論理で「NOと言わないからYESと思ってやった」と同じことだ。映画でも「決まったことだからしょうがない」「なんで当日まで反対のデモやるのか意味わからない」というコメントがあった。冷静に考えれば、制度は人間がつくったルールだから変えられることに気づくはずだ。論理的な正当性、大義名分をみつめ、言語化すればそれに共感する人が増えていく。ただ、小さい頃から同じことを同じタイミングで、同じクオリティでできないといけないという「ベルトコンベヤー」の教育を叩きこまれるから、常に逸脱してないか、仲間外れにされないかを始終、恐れともいえるものが全編通じて伝わってきた。

正直、武道館に列していた一般人の献花も、言葉はおかしいがどのくらいの本気度なのかな、とも思った。唐突で理不尽ともいえる亡くなり方をしたし、追悼で献花した方がいいかな、みんなやってるみたいだし。と思っているのかもしれない・・と一日思い返してもやもやしている。
まずは、自分たち大人が心からの生きた言葉、感情を取り戻して無理しない範囲で出していくことが必要ではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?