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男女差別と「違和感」というアンコンシャスバイアス

定期的に視聴している、ジャーナリスト津田大介氏による「ポリタスTV」でアメリカ最高裁での中絶をめぐる判決についての動画を視聴する中で、最高裁判事だった、ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏の功績について知ることができた。その中で紹介されてた伝記映画「ビリーブ 未来への大逆転」を見てみた。法は市民ひとりひとりの傍に立っているとした信念と、法律家としてお互いに尊敬して支えあったルースとマーティン夫婦のパートナーシップが素敵だった。

「ビリーブ 未来への大逆転」

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07V64PZ5S/ref=atv_dp_share_cu_r

「米社会を大きく変える「最高裁」という問題」(11/10ポリタスTV)

観ながら、今年の森喜朗元JOC会長による女性は会議が長い発言やオリンピック開会式での一連の電通セクハラ問題、選択的夫婦別姓反対運動など、日本は何周も遅れている現状を思い出してため息が隠せなかった。(そもそも、最高法規の憲法が戦後GHQによる制定に対し、適用されている民法が明治時代という矛盾がある中で憲法に従えって言ってもそれに呼応できる条文が明治からの民法にはないという現状があるのではないか)

映画では、ルースが男性・女性両方に対する法律的な差別に立ち向かう描写があったが、劇中でカウンターパートから10万年の人類の歴史から外では男性が働き、家庭は女性が守るのが当たり前ではないかという旨の台詞があったが、10万年そうだったかを実証するのは難しいのに、「そうであった方がしっくりくる」というバイアスをわたしも被っていることを改めて強く感じさせられた。人間は職場やその場の環境に応じてふさわしいと思われる役割を演じる社会的習性があると思われるが、そのような役柄を求められ続けて「しっくりくるように観客側から見えたから」というのが偶然に続いていただけなんじゃないか。

もちろん、男は外・女は家庭という性別役割分業は時代遅れだし、女性の社会進出は加速されるべきだ。(第一次世界大戦時から世界的に女性の社会進出が促進された覚えがあるが、昔は戦争で男の働き手が減って産業の停滞、今では少子高齢化で同じ結果が出るのは明らかのためどちらにせよ、女性が働くことは当然となる)そうすると、同じ条件で生活しているんだからギンズバーグ夫妻のように家事育児を分担するのはマジョリティーになってもいいはずだが、この三種の神器以上の家電が発達した令和においても「いまだに」女性に対して家庭との両立を求められる。男性に対してはそのような啓発が会社から働きかけられていた覚えはない。たった3、4年前にも若手の女性社員限定で、「仕事と家庭を両立するにはどうすればいいか」という研修が会社主宰で開催され、ゲストの方(全員女性)にどのようにしたらいいか、といった相談会みたいなものに参加したことがある。「なんで同性の人同士で相談しないといけないのか」「この場に参加者・ゲストともに男性がいないのはなぜか」といった違和感は今でもぬぐい切れない。

生物的な違いがあるからどうしても分担できないこと(妊娠出産とか)はあるのだが、職業で男女差別をなくそうということなら、根深く男女間での巣食っている「アンコンシャス・バイアス」を外していく、そのフィルターで見ることをやめていく習慣が必要になるが、まだまだ時間はかかりそうだ。比較的、母親も同世代の女性に比較してずっと働いてきたため共働きで育ってきた私でも、小さい頃お迎えや家事全般(中には義理の実家へのお歳暮送りとかも!)、こまごまと母親がしてきている姿を見ているため、まだまだギンズバーグ夫妻のように男性が家事を割とメインでするというイメージが付かないのが実感値としてある。現在、そのような相手はいないが現行の戸籍で誰か異性と法律婚する場合、どのようにパートナーシップを築けるのか、私の仕事(会社は変わるかもしれないがおそらく会社員は続ける)は続けられるのか、、など考えると関係性を築くのを躊躇してしまう。話し合えばいいじゃないというかもしれないけど、当事者同士のバイアスやお互いの家族の価値観など、我々だけじゃ問題解決できない現状もあるな・・とひたすら杞憂なのかもしれないがいろいろ思いながら、「結婚」という呪いをかけられがちなアラサー女の日々を生きている。まだまだ「違和感」というバイアスが溶けるのは時間がかかりそうだが、少しづつ外していこう。

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