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「冷静な航海士」と熱き守り神

5年前、大学の演劇ホールのこけら落とし公演でご一緒した演出家の方による、ラジオドラマが放映されていた。「ノストラダムスと冷静な航海士」というタイトルだ。始めに、お会いした演出家の方と主演の方のお名前が読み上げられたとき、一気に懐かしさが押し寄せた。

とある未来。ある出来事で、時が1997年で止まってしまう。その背後には、ある公文書類の存在があった……。なんとなく、あのことかな、とピンと来るものがあると思う。ある人たちにとって不都合な真実を、多数の人間が悪気がなく一つの歯車になって、無機的に隠してしまう今の日本社会の暗部を思い起こされた。モリカケ、3.11の一連の出来事だったりと、2010年代からの出来事を走馬灯のように聞きながら脳内を走り抜けた。劇中には、「誰もが冷静な航海士」なんだよ、という台詞がある。良くも悪くも、人間は役割を果たす余り、その人の愛すべき人間らしさを、不要ならば切り捨ててしまうある種のもの悲しさやどうしようもない性がある。

言ってしまえば「自分らしさや生活のために身に付けるペルソナ」であり、純化されると、自己と社会にプラスに働く一方で、盲目に従った余り自分を失ってしまう諸刃の剣であり、劇中では対照的な形でそれぞれ描かれている。特に後者は、知らず知らずのうちに一部の人間の利害を守るために利用されてしまった姿であり、現実に起こった出来事と重なるところがあった。それを目撃したところで、「歯車」になることは毎回感知できて、拒絶できることも限らない。できれば前者でありたいが、「社会不適合者」や「能力、適性がない」と見なされることは後者が目立ってしまう(私もそうだ)。それはそれで苦しいし、自分の利用価値とは何か考えてしまう(これについてはまた別途)。

「航海士」と対をなしているのが、家族や友人に対しての唯一無二の存在、海関連でたとえると「守り神」といったところか。誰かにとって有難い存在、替えが効かないという意味だ。プライベートでのあり方も劇中では浮き彫りにされており、「冷静な航海士であり、熱き守り神でもある」人間の難しさを現実的にくっきりと描いていた。前回、舞台でご一緒した時にも感じたが、彼の作品は現実を浮き彫りにする一方で、それぞれ葛藤を抱えながら、ぶつかり合いながら前に進む人間たちを見守っているようで、聞いている私も一員として傍に息を飲みながら一部始終を駆け抜けた気がするし、最後は次に繋がりそうな一筋の光が手元に残っている、この作風が好きだ。



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