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”良し悪し”じゃない偶然とか雑談とか

 今晩は、住人が地元の方からいただいた山菜を分けてくれて、美味しいといいながら改めてお付き合いの経緯を聞いたりした。じっくりと、月1回集まりで顔を合わせて、とりとめもない話をしていくうちに、たぶんおやじさんの感謝のしるしとしておかずをいただくことが多くなったのだとか。ちょうど、読み進めている『「利他」とは何か』で論じられていることにも近いことをご飯食べながら話していた。

 自分をないがしろにせず、またお節介な「先回りをしない」他者との人間関係について研究する東工大の先生たちによる著書である。NHKを流しながら話していると、22時のクローズアップ現代に突入しており、コロナ禍の働き方改革を取り上げていた。「雑談」が、アイデアや働きやすさを促進するという考え方は異論はないが、言ってしまうとそう”意識”させてしまうやり取りが果たして雑談なのだろうか。住人が山菜をいただいたおじさんとしゃべっているような、自ずから言いたいことを勝手にしゃべっている状態ではないかなと、あまのじゃくに思ってしまった。潜在的に「良し悪し」をつけたがる人間の心理が根強いこと、更に「良きよい方向へと」ストーリーをつくりたがる癖があることを改めて認識した。

 頭があまり回ってないのでこれ以上いろいろ書くと堂々巡りになるし、人と話すことのハードルが高くなっているここ2年間での様々なコミュニケーションをめぐる取り組みは賛成しているが、社会的に不安な感情が漂っている中での過剰な言葉遊びや選び、やり取りで使われないことを心掛けたい。どちらにせよ、見えている範囲が限られている中での判断も選択も一時的に有効なもので、偏っている、ていう前提が共有できたら、もっと今必要な意思決定が柔軟に、スピーディーになされる気がするな。錘を少しづつ外していこう。




 

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