前に進むか後退か、代替策か。選択した結果だけが残る明確さと残酷さ

夢枕獏氏の小説が原作の『神々の山嶺(いただき)』のフランスでのアニメ版がAmazon Primeで6日から配信され、今日ちょうど山登りに行ってきた私は何が何でも見なきゃという気持ちだった。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8NBPM9P/ref=atv_dp_share_cu_r

山の空気、風の音、あるいは主人公と記者の彼らの呼吸、痛みが直に伝わってきて観客も急峻な崖を登っているような瀬戸際に立っている気持ちになる。音楽も弦楽を中心にした、重厚な通底音が響き自然の厳しさを感じさせる。

私はロッククライミングしない、鎖場からして苦手で登りやすい尾根道を上りやすい季節や天候選んでもっぱら趣味で登っているが、それでも道中は何が起こるか分からない。描かれていた究極な選択を突き付けられる事態まではいかなくても、一歩進む道が合っているか、けがをしないか、無事に日暮れまでにふもとに帰れるか、自然の中にたたずむことを楽しみながら傍らに意識している。今日も奥多摩登山だったが、往路が人にほとんどすれ違わず、標識も分かりづらく30分近く地図とにらめっこしながら、このまま迷うようだったら急登が続くがメジャーなコースまでバス拾っていくか、あるいは間違った先の小山に目的地を変更するか、でも当初の目標をあきらめたくないしで、まさに欲望と理性が明らかに葛藤する場の一つが登山だろう。

本作に描かれているように、前に進むか後退するか、プランBを取るか、瞬時に判断して動かないと命取りになりかねないこともある。山に殺されたわけでもなく、自分の判断がおかしいわけでもなく、理由は両方あるしないのだと思う。運なのかもしれないし、切実に生きて頂上を目指したいという思いが山嶺におわす(のだろうか)神々たちに通じたからなのか、理由は計り知れないし、類推しても仕方ないことだろう。残酷だが生と死の境界しか存在しないのである。

頂上を目指したい思いと環境の過酷さについていけない身体をどう自身で折り合いをつけていくのか。人間は冷徹にリスクを考えて諦めたり、代替案で済ませることもできるが第一希望で通したいという強い欲求も併せ持つ厄介な存在なのである。やり直しができるかもしれないし、できないかもしれない。誰も後のことは保証できないのである。

趣味ハイカーだが登山家(と名乗ってもいいのなら)の片隅の片隅の私にとって、中盤以降のシーンは自分の身がじりじり、生死の境に突き付けられているようだった。誰も責められないし、あるいは神格化もできない。存在の有無の圧倒的な重さを感じさせる作品だ。

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