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地球のはなし 推古時代の大飢饉 

 朝日長者伝説のもととなった、『豊後国風土記』の田野の事件「農民が餅を弓の的にしたら、餅は白鳥になって南に飛び去り、農民は死に絶え、田は荒廃した」について、去年の12月初め、本欄に次のように書いた。

 推古天皇の時代、大寒波のため稲が実らず、農民は餓死し、一村消滅の事態に陥ったのではなかろうか。

 その後、あれこれ書物に当ってみたのだが、これに関係のありそうな文章は意外に少なく、もはや、頼りは『日本書紀』しかない。ありがたいことに、原典の漢文を現代文風に書き下したものがある。簡単に紹介しよう。

 推古紀の620年代は、異常な天候や飢饉が続いた。とくに、626年の春から夏の長雨(雪も降った)による飢饉は悲惨だったようである。

 老人は草の根を食って道ばたで死に、幼児は乳を含んだまま母子共に死に、強盗や泥棒が絶えなかった、とある。

 これより2年後、推古天皇は75歳で崩御されたが、「近年は五穀が実らず、民は大変飢えている。私の陵墓は造らず、竹田皇子の陵に葬るように」と遺言された。

 民に対する天皇の心に打たれる。しかし、この遺言と飢饉のことは等閑視されてきたように思う。政治や戦争ばかりでなく、こうした側面をもっと取り入れた日本史が欲しいと思った次第だ。
                          (2009.6.30)

別府温泉地球博物館理事長の由佐悠紀が執筆し、新聞・雑誌などに掲載されたものを順次ご紹介しています。--

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