何か作業をするに当たって、義務感・責任感と楽しさ・面白さはどちらがよりよい結果に結びつくのだろうか
最近は、難しい本を読み進めているので、今日はゆるめに。
「よく自分が楽しいと思うことをやれ」「自分がやりたいことをやれ」と言われる。
今やっている作業で、比較的自分が楽しい、面白いと思ってやっているプロジェクトの作業であるが、周りからほとんど注意や意見を言われないという作業がある。
これがなかなか進まない。
自分がやりたいことのはずなのに。
自分にとって、やりたいこと、楽しいこと、面白いことは、当たり前だがやってて楽しいはずである。なのになかなか進みが良くないのはなぜか。
本当はそこまで好きじゃない、楽しくない、実は面白くないということなのか。いや、確かに最初は楽しいと思っていたはずである。
一方で、人から言われてやる作業がある。言われると怖いから、背中に嫌な汗をかきながらやる。
気持ちは落ち着かない。でも、怖いから作業は結果として早く終わる。
そうすると、責任感とか義務感とかそういうのがある場面の方が結局はかどるのだろうか。
楽しさ・面白さと責任感・義務感は、どちらが良い結果に結びつくのだろうか。
ケースバイケースなんじゃないかという考えもあり得る。そうすると、楽しさ・面白さを推した方がいいケースと責任感・義務感を推した方が良いケースというのがあるのだろうか。
そもそも、楽しさ・面白さと責任感・義務感というのは両立しないのだろうか。もしかしたら両立するのかもしれない。
では、両方あったときが一番いいのだろうか。でも、責任感や義務感を持ってたら、逆に、純粋な楽しさや面白さは減退してしまうときもあるような気もする。
もう少しだけ、分析的にみてみる。
楽しさ・面白さはwantで、責任感・義務感はmust。
楽しさ・面白さは「やりたい」で、責任感・義務感は「やらなければならない、やるべきだ」ということになる。
あとは、楽しさ・面白さというのは、自分がどう思うかと言い換えられるかもしれない。一方で、責任感・義務感というのは他人からどう思われるかと言い換えられるかもしれない。
前者は主観的、後者は客観的ともいえるかもしれない。
そうすると、こんな仮説は立てられないか。
もしかしたら、楽しさ・面白さと責任感・義務感は、両立しているのではなく、実は、ぐるぐる回っているのではないか。
こうしたい、やりたいことがあると思っているとき、それ自体は、楽しいこと面白いことかもしれないけど、それを達成するためには、やらないといけないこと、やるべきことがあると思う。それをやらないわけにはいかない。
逆に、別に楽しくもないけど、責任感や義務感に駆られてやったとき、人から喜ばれたり、感謝されたりして、楽しい・面白いと感じる場面もあると思う。
このように楽しさ・面白さと責任感・義務感は、駆動しながら入れ替わっている感じなのではないか。
そして、その回転数が多いとき、そのプロジェクトはよりよい結果に結びつくのではないだろうか。
そうすると、その回転は、他の人との関わりやつながりを感じたり、逆に自分を見つめ直すことを繰り返すことによって生まれそうである。つまり、他者が起点であり、くっついたり、離れたりしながら入れ替わっていく。
こんな仮説は検証できるのか、よくわからないが、今日はこのくらいにします。
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