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敬体(です、ます)と常体(だ、である)の使い分けについて

以前、noteなどの記事を書くときに敬体(です・ます)にするか、常体(だ・である)にするかどちらがいいかという話題があった。

私は、正直どちらでもいいかなと思っていて、あまりこだわっていない。敬体で書いた記事もあるし、常体で書いた記事もある。

そんななか、この違いについて考えたことをなんとなくつらつら書いてみようと思う。

まず、敬体(です、ます)は、「敬語」ということになる。敬語ということはざっくり行ってしまうと相手を立てているということだと思う。
もっというと、読み手が「いる」ということが意識されているのではないかと思う。読み手という相手を意識して伝えようとすると敬語になりやすく、敬体のほうが伝えやすくなる。

そうすると、常体(だ・である)のほうは、相手が「いない」ということなのだろうか。

これはどういったらいいのかなかなか難しいが、少なくとも常体のほうは伝える相手が誰なのか、文体だけだとはっきりしないということが言えそうな気がしている。

この点、文章は何かを伝えようとしているはずであるから、伝える相手方はいるはずである。そうは思いませんか。それは、誰か一人の他者かもしれないし、会場のオーディエンス全体かもしれないし、日本国民かもしれないし、世界市民かもしれないし、あるいはもう一人の自分なのかもしれない。

しかし、常体の場合、それが、誰を対象としているのか文体だけだとはっきりしない。逆にいうと、客観的・抽象的な印象を与えやすいのではないかという気がする。だから読んでくれている人に向けられているのか、そういうことではなくて、およそすべての人を対象としているのかはっきりしない傾向がある。

一方で、敬体は、具体的・主観的な印象を与える。少なくとも読んでくれている人を敬っている。今この文章を読んでくれている人もいるはずである。そう、あなたです。ありがとうございます。ぜひ、ほかの記事も読んでみてください。

敬体と常体については、どちらも使う場面はそれぞれあるけれど、敬体と常体を一つの文章の中に混ぜることはタブーであるといわれている。

確かに、オフィシャルな文章であればあるほど、敬体と常体を混ぜてしまうことはご法度だと思う。オフィシャルな文章としてのお作法といったところだ。

その一方で、noteの記事のようなオフィシャルでない文章の場合は、敬体と常体を混ぜることについて、そこまで神経質にこだわらなくてもいいような気がしている。実際のところ、私も混ぜてしまうことがたまにあります。

この点について、敬体には具体的・主観的な、常体には抽象的・客観的な印象がある気がしている。言い方を変えると、読み手との距離感に差があるともいえる。そうすると、敬体から常体に、あるいは常体から敬体に切り替わることで、読み手との距離感を変化させることができるということができるかもしれない。なんとなく読み進めているなかで急に切り替わると、一回読み手は「ん?」とか「お?」となって読み進める手が止まる。読み手に違和感を持たせて読み進める手を止めさせることは普通はしないほうがいいけど、たまにはあえてそうして見ることもアリかもしれません。

ということで、私のnoteでの使い分けのスタンスはかなりゆるい。強いて言えば、それらの特徴を理解しつつ、必要に応じて使い分けてみたらどうだろうか、そんな感じです。

そんなわけで、文体の違いを意識しつつ、「今日一日を最高の一日に




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