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自分より若い人が頑張っているのをみると、自分が年をとったなーって思うことについて


先日、地元でアクティブに頑張っている自分より年下の人とランチした。

とてもよく勉強していて私が知らないことをいろいろ教えてくれた。
地域では若くて頑張ってくれている人が減っている印象がある。というか若い人そのものが少ないなあという印象がある。

そういう中で、アクティブな若い人の話はとても刺激になる。

自分の年齢は30代後半だが、あーなんか年をとったなあと思ってしまった。

老け込むにはまだ早いけれども、仕事を始めたばかりのときのギラギラした感じ(?)はないなあと感じてしまった。

ただ、年を取ったということは、確実に私は昨日よりも1日分多く経験をしているということでもある。
大したことしないで終わった1日だなあと思ったとしても、それでも前の日よりも1日分自分は積み重ねをしているはずだ。

昨日の投稿で、ヒュームのコンベンション(黙契)という概念に触れた。

長い期間をかけて積み重ねられた暗黙の慣行、慣習をコンベンションというらしい。

コンベンションは、必ずしも当人たちが明確に認識しているとは限らない。気がついていなくても、今日は、確実に昨日よりも積み重ねがなされている。

そういえば、昨日、ヒュームのことについて、引用しようと思ったけど、書き切れなかった部分がある。

われわれは、対象をそれらに実在する内在的な価値からよりも、むしろ比較から判断する。そして、何かと比較対照することで、それらの対象の値打ちを高められない場合には、対象の中にある本質的に良いものさえも見落としてしまう傾向がわれわれにはある。

「所有論」鷲田清一著.講談社より

われわれは、物の価値を、内在的な価値ではなく、他のものとの比較から判断してしまう
そして、これはしばしば情念と結びつき、偏りを生むとヒュームはいう。

われわれは、対象をその内在的価値から判断することはめったになく、他の対象との比較から、それについての考えを抱く。それゆえ、われわれは他者のうちに観察する幸福あるいは不幸の量の大小に応じて、自分自身の幸福と不幸を見積もり、その結果として苦ないし快を感じるに違いない、ということが帰結する。他人の不幸は、われわれに自分の幸福のより生き生きとした観念を与え、他人の幸福は、自分の不幸のより生き生きとした観念を与える。それゆえ、前者は喜悦を生み出し、後者は不快を生み出すのである。

「所有論」鷲田清一著.講談社より

なんとも悲しい人間の性。。

それを受けて、マックスシェーラーは、ニーチェのルサンチマンの概念を持ち出しつつ次のように述べた。

高貴な者は比較に先立って価値を体験するが、卑俗な者はまず比較においてかつ比較によって価値を体験する。こうして卑俗な者にあっては「自己価値と他者価値との関係」が価値の選択的把握一般の条件になるという構造になっている。卑俗な者は、価値を同時におのれの自己価値より「より高いもの」「より低いもの」とか「より以上のもの」「より以下のもの」として受けとることなしには、したがって他者を自分で測り自分を他者で測ることなしには、他者のもつ価値を把握することができない。

「所有論」鷲田清一著.講談社より


さっきわたしは若いアクティブな人と話して自分が歳をとったなーと感じたと述べた。
他人と比べて自分を卑下する思考だった。
が、これは比較によって価値判断をした「卑属」なものだったのだ(!)

比較により不当なバイアスがかかった判断は、誤りのおそれがある。比較に先立って価値を体験しよう。

比較にとらわれず本質を見極めることは難しいが、比較によって価値を体験することには偏りがあることを自覚し、ルサンチマンに陥らないよう注意しよう、今日はこんな感じです。

というわけで、「今日一日を最高の一日に




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