見出し画像

noteにはnoteの書き方の記事が多い 

noteを投稿する数が増えると、自然と他の方のnoteを読ませていただくことが増える。

本当にいろいろな記事がある。

役に立つ情報が書いてある記事もあれば、文章そのものに「ああ、こういう書き方もあるのか」と感動することもある。

自分の投稿の記事を書く時の参考にしているものもあるし、自分でも気づかないうちに参考にしてしまっていることもある気がする。

いろいろな人の記事を読んでいると「noteそのものの書き方」について、論じているものが結構多いと気づく。

他のSNSでは、facebookの書き方とか、Xの書き方を論じたものはあまりないと思う。

これは、noteの基本スタイルが、タイトルと本文テキストを投稿するというところにある気がする。
noteは、参加しているもの全員が記事を投稿し合うという独特のプラットホームである。

いいかえれば、noteの始まりは、右上の投稿ボタンを押して「さて、何を書くか」である。

つまり、やっている人全員が、まず「さて、何を書くか」というフェーズを通過する。

noteでは、参加しようとするとタイトルと本文テキストを書く欄を与えられる。あとは基本、自分で文章を書くしかない。

プラットホームの参加者全員が「何を書くか、どのように書くか」という問いを共有しているともいえる。そう考えるとちょっと面白い。

ここにはある意味、noteをやっているすべての人のニーズがある。

読者のニーズがあるのだから、このことについての記事が増えるのは自然である。
このように「noteの書き方」の記事が多いのはnoteの性質そのものに由来しているわけだ。

さて「noteの書き方」系の記事について。
自分も結構読みたいと思って、割といろいろな「noteの書き方」系の記事をクリックして読む。本当にいろいろなパターン、アプローチがある。

よく「文章に最後まで読ませる力がある」と言う言い方がされることがある。

読ませる力がある文にはいろいろな要素があると思うけど、ここではひとつ、「わかりやすさ」と「あいまいさ」という発想をちょっと考えてみたい。

まず、読んだ人が、その文の意味が全くわからないときつい。全然わからないのに最後まで読ませるというのは至難の業だと思う。

したがって、文章を書くにあたっては多かれ少なかれ「わかりやすさ」をどこに設定するかは意識するんじゃないかと思う。

完全なわかりやすさを追求する文章というのはある。
それは、取扱説明書とか公用文のような、読み手の読み方を一つだけにする、ほかの解釈を許さない文章である。

ただ、「わかりやすい」だけだとたぶん物足りない。

取扱説明書を最後まで読むのはきつい。

また、「他の解釈を許さない文章」は命令的であり、ある意味で暴力的である。

だから、文章を書くときは、一方で「あいまいさ」というのもどこかで意識するのではないかと思う。
これは、読み手に解釈の余地を設ける文章ともいえる。

つまり、読んだ人にも「これはどういうことだろう」と考えてもらう要素も多かれ少なかれ必要なのではないかと思う。

ピエールバイヤールは、「読んでいない本について堂々と語る方法」で、コミュニケーション空間は、個人の<内なる図書館>と<内なる図書館>が交錯する<ヴァーチャル図書館>であり、<ヴァーチャル図書館>は幻想で、あいまいさ、空白、欠落が許される空間であると述べた。

あいまいさを許さない空間は、<ヴァーチャル図書館>を暴力的な空間に変えてしまう。

<ヴァーチャル図書館>は、イメージの空間虚構の空間遊戯的空間である。

「あいまいさ」を意識するというのは、この空間をどのくらい楽しめるか、ではないかと思う。

「あいまいさ」を許すということは、自分の書いた文章が、相手が違う考えをもって読むことを許容する、あるいは読まないことすら許容する、そして、それすら楽しむということではないかと思う。

ピエール・バイヤールは、むしろ読んでいない方がいいとすら言っている(変な人である<褒>)。

ということで、noteという<ヴァーチャル図書館>という遊戯的空間を、「わかりやすく」かつ「あいまいに」、読んだっていいし読まなくたっていい、書いたっていいし書かなくたっていい、マイペースに楽しんでいければそれでいいじゃない、そんな感じです。

そんなわけで、「今日一日を最高の一日に



この記事が参加している募集

#noteの書き方

29,148件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?