見出し画像

平安時代を偲ばせる雅な行事「曲水の宴」 当社御祭神と菅原道真公とのフシギなご縁とは?

今月の御朱印のモチーフとなっている「曲水の宴(きょくすいのえん)」。今回はそんな雅な行事についてご紹介します…🎵


画像1

4月の特別御朱印は桜の下、曲水の宴に興じる御祭神たちがモチーフとなっています🌸


【曲水の宴とは】

曲水の宴とは、平安時代に流行した貴族文化で、参加者は曲水の庭園の上流より流される酒盃が自分の前を過ぎる前に、お題に沿った和歌を作り、お酒を頂くというルールの歌会です。

関東の方は馴染みのない方も多いかもしれませんが上賀茂神社(京都)や毛越寺(岩手)、太宰府天満宮(福岡)などで再興されています。

画像6

色とりどりの平安時代の装束を身に付けた参加者が庭園の鑓水(やりみず)の流れに沿って座し、和歌を詠み交わす光景はまるで平安時代にタイムスリップしてしまったのかのよう…!

優雅に見えるこの行事ですが、制限時間内に和歌を詠みあげる瞬発力が求められる、高い競技性も見ものです。

雰囲気は全く異なりますが、現代の「フリースタイルラップ」にも通ずる気がします。…平安貴族の和歌バトル、見てみたいものです…!!

画像3


◆曲水の宴と天神さまの由縁

ちなみに、そんな曲水の宴。
当社の御祭神である小野篁公と御配神の菅原道真公とは深イイご縁があります♪

篁公の孫には道真公と並んで「書の三蹟(三聖)」と名高い小野道風(みちかぜ)と、その兄であり篁公と同じ「参議」に列せられた武闘派の小野好古(よしふる)という兄弟がいます。

兄の好古は長らく大宰府の長官を務め、朝廷で行われていた「曲水の宴」と「残菊の宴」を太宰府天満宮に伝えたとされる人物でもありました。

画像7

道真公は生前、朝廷内で栄華を誇った藤原氏に匹敵するほどの実力を有したものの、政争に敗れて最期は配流され、「都に戻りたい」という悲願を果たすことなく大宰府で生涯を終えています…。

その後、大宰府の長官を務めた好古は、道真公の往時を偲んで当時宮中で行われていた「曲水の宴」と「残菊の宴」を太宰府天満宮にもたらしました

都から遠く離れた太宰府でも往時の楽しみをと、道真公の御霊を宮中の文化でもてなし、慰撫しようとしたのではないでしょうか。

画像7

太宰府天満宮に伝わる「残菊の宴」

実は、この好古と道真公の繋がりには、深い理由があるのです・・・。

好古の祖父である篁公と道真公の父である菅原是善(これよし)は、同じ東宮学士(皇太子付きの教育官)として同時期に任ぜられ、「三代実録」にも是善公は篁を詩家の達人と仰いで懇意にしていたとの記述があるように、年齢は離れているものの互いの才を認め合って深く交流をしていたといわれています。

また、道真公と同じ時代を生き親交のあった小野美材(よしき)は、好古と同じく篁公の御孫で、当時傑出した詩文・能書の名人とされた人です。

美材は、二星(じせい)という雅楽の朗詠曲にも残る七夕の名歌を詠んだ。能書家でもあり、醍醐天皇の御代に、大内裏の西面三門の額字を書いたとされ、他の三面は三筆の手による物(南面・弘法大師、北面・橘逸勢、東面・嵯峨天皇)で、美材が三筆に比肩する腕前と見られていた証左とされる。

大宰府の地で美材が亡くなったことを知った道真公は、「知文之士」詩人に長じた者美材だけだったが、これで詩文の文化は衰えてしまうだろう、同時に「真行草書勢」書の達人も失うこととなった と歎いたとの記録が残ります。

こういった非藤原家系で篁公の時代からの親交のある家同士とあるだけでなく、両家ともに詩文や能書をはじめ、学問や芸術芸能に深い造形の深い家柄。通じるものが多くあったのかもしれません。

そして篁公の三男で、好古の父にあたる小野葛絃(くずお)は、道真公が流刑に処された時の太宰府の長官(大宰大弐)であったという奇縁も、好古の行為を大いに後押しします。
長官という立場にありながら深い縁のある道真公を助けることが出来なかった葛絃の想いは如何程のものだったでしょう。好古は、父葛絃が果たせなかったそういった想いまでを受け継いで慰霊に努めたのではないでしょうか。

三代にわたり、御孫達によっても数奇な繋がりがもたらされた篁公と道真公。
小野照崎神社では御祭神と御配神として鎮まっており、当社の御神紋も左三つ巴に梅鉢という、2柱の神様の紋が合わさったものとなっています。

画像5

不思議なご縁を感じますね…✨

参拝の皆さまにも、良きご縁がありますようお祈りしております😊

画像4


写真提供:太宰府天満宮


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?