名歌「秋思」から「九月十日」へと繋がる菅原道真公の激動の1年
「重陽」特別御朱印は、9月9日の「重陽の節句」がモチーフです。
御朱印に添えられているのは「九月十日」という、当社ご配神の菅原道真公が詠まれた詩。
簡潔ながらも強い想いがにじむ詩ですが、この詩が詠まれた背景には涙なしには語れないドラマがあるのです…!
物語はこの詩が詠まれる1年前までさかのぼります。
◆道真公が詠んだ、残菊の詩「秋思」
「九月十日」が詠まれる1年前のこと。
道真公は重陽の節句の翌日(9月10日)に行われた残菊の宴の席で、醍醐天皇ご臨席の傍ら「秋思」という詩を詠みました。
【秋思】
梅だけではなく、菊も愛した道真公。
重陽の節句が過ぎて咲く残菊に掛け、自身の不足とその胸中を詠んだ歌です。
この詩を聞いた醍醐天皇は大いに感激されて、道真公に自らの衣を与えました。
道真公の栄華を象徴する有名なエピソードです✨
しかしこの翌年、道真公は藤原時平の讒言により政争に敗れ、遠い九州 大宰府の地に極めて配流に近い左遷を受けることとなります…。
◆「秋思」の翌年に詠まれた「九月十日」
「秋思詩」を詠んだ一年後の901年、道真公は配所において御衣を賜った日を思い返しながら、天皇をお慕いする「九月十日」という題の詩を詠まれました。
【九月十日】
大宰府への配流の後は、衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも、只菅に誠を尽くされていた道真公。
皇室のご安泰と国家の平安、またご自身の潔白をひたすら天にお祈りされた という記録が残されています。
この歌を詠まれた約1年半後の延喜3年(903)2月25日に、道真公はそのご生涯を閉じられることとなります。
没後、朝廷でも道真公の無実が証明され、「天満大自在天神」という神様の御位を贈られました。
その生涯を通じ、誠を尽くされた清らかな生き方が多くの人々の琴線に触れ、現在においても「学問の神様」、そして「至誠の神様」としても広く信仰を集めています。
◆今も行われる「残菊の宴」
道真公ゆかりのお社である太宰府天満宮では、964年から御祭神 小野篁公の御孫である小野好古によって「残菊の宴」がはじめられました。
都に戻るという悲願を達成することなく、大宰府でそのご生涯を閉じられた道真公を偲び、宮中で行われる行事を大宰府の地に伝え残すことで、道真公の御霊をお慰めようと考えたのです。
何故小野家の人間が、道真公の慰霊に努めたのでしょうか?
実は、この好古と道真公の繋がりには、深い理由があります🔍
◆当社御祭神の篁公と御配神の道真公を結ぶ「奇縁」とは
好古の祖父である篁公と、道真公の父である菅原是善公は、同じ東宮学士(皇太子付きの教育官)として同時期に任ぜられ、互いの才を認め合って深く交流をしていたといわれています。
また、同じ篁公の御孫で道真公と親交のあった小野美材は、当時傑出した詩文・能書の達人とされた人。
大宰府の地で美材が亡くなったことを知った道真公は、「知文之士」詩人に長じた者は美材だけだったが、これで詩文の文化は衰えてしまうだろう、同時に「真行草書勢」書の達人も失うこととなった と歎いたとの記録が残ります。
そして篁公の三男で好古の父である小野葛絃は、道真公が流刑に処された時の太宰府の長官(大宰大弐)であったという奇縁も、好古を大いに後押しします。
長官という立場にありながら、深い縁のある道真公を助けることが出来なかった葛絃の想いはいか程のものだったでしょう。
好古は、父のそんな想いまでをも受け継いで、慰霊に努めたのではないでしょうか。
このように三代にわたり、御孫達によっても数奇な繋がりがもたらされた篁公と道真公。
小野照崎神社では御祭神と御配神として鎮まっており、当社の御神紋も左三つ巴に梅鉢という、2柱の神様の紋が合わさったものとなっています。
お二人をつなぐ奇縁は、現在においても続いているのです…✨
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