天才という言葉の残酷さ

みなさん、こんにちは。
毎日投稿と言いながら本日2本目の記事になる。
まあ、ルーティン化していきたいので夜も書こうかな。

今回は天才という言葉の残酷さについて考えていきたいと思っている。と、いうのも昨晩の上野正明さんのインスタの配信を見ていてこの発言が出てきた。「ぷらそにかメンバーの中に天才だと思った人はいますか」という質問に上野さんは「みんなの努力してきた姿を見てきたから天才だとは思わない」と言っていた。

とても本質的で心動く言葉だった。

もちろん私も天才ではない。ただ、正直小学生くらいまではちょっと天才だと思っていた。少年サッカー時代は入ったのが遅かったのに割とやれている感覚があったしみんなよりうまい自信もあった。キャプテンにも任命されたし、県選抜にも選ばれた。

もちろん県選抜に行くと天才だなと思う奴は何人もいた。特に私の代は歴代で見ても最強世代と言われるくらい上手い奴がそろっていた時代だった。みんなめちゃくちゃうまかった。ただ、そこに入っている自分も天才の一人だと思っていた。

今、思うと信じられないくらい練習していたと思う。平日2日はチームのナイター練習、ない日も公園にボールを蹴りに行ったり、父と弟と和室でサッカーをしていた。土日は午前中チーム練習もしくは夕方まで練習試合、夜はキーパークリニック、もしくはブラジル人の中に一人で混じってフットサルをしていた。そこに加えて地区トレセンと県トレセンの練習会もある。

どう考えてもチームの誰よりも練習していたしボールを触っていた。県で考えても有数だったんじゃないかと思う。

そりゃうまくなるわ。中学に上がったら練習時間が変わりそんな生活が出来なくなったし無駄にしてしまう時間が増えた。

そりゃ、下手になる。

天才はいない。天才と言われている人でも間違いなく腐るほど努力してきている。群馬県で1位、2位を争っている高校のサッカー部の連中は授業中先生がちょっといなくなったら一斉にストレッチを始めるらしい。そういった部分の質が重要なんだろう。

天才という言葉は残酷だ。誉め言葉ではある。だが、裏側ではその人の努力を見てあげなていない。認めていない。

天才サッカー選手は誰よりもボールを蹴っているし、天才実業家は誰よりも考えている。天才指揮者は誰よりも指揮棒を振っているし天才シンガーは誰よりも曲を書いている。

そういうものだと思う。

この文章を書いていて自分が情けなくなってきた。天才なんていない。信じられないくらい努力してきた人ばかりだ。なのに今、自分は努力を辞めたくなってしまっている。そんなことで良いわけがない。

天才は誰よりも努力をしている。

天才は1%の才能と99%の努力で出来ているというのは良く言ったものだ。

そんなことを思わせてくれた上野正明さん、ぷらそにかメンバーに感謝。

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